土を掘る 烏兎の庭 第三部
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2007年8月


8/4/2007/SAT

レールウェイ 過去から未来までデザインでめぐる世界の列車旅行(railway identity, desgin and culture, 2005)、 Keith Lovegrove、内野寛訳、ピエ・ブックス、2005

しばらく、媒介もなく内面について書きすぎていた。初心に戻り、読んだ本、聴いた音楽、見た番組を手がかりにして書いていく。何かを書こうと意識しないほうがいい。

図書館の、鉄道の棚で見つけた大型写真集。手にとってすぐ、前に買った航空旅行の写真集“airline”と同じ装丁であることに気づいた。

“airline”は飛行機旅行にまつわるさまざまなものの写真を集めていた。書名の副題はそうした付随するものたちをまとめて文化と呼んでいた。本書も、機関車や客席だけではなく、食事や制服、旅行会社のポスターなど、列車旅行に関するさまざまなものの写真が掲載されている。0系新幹線の写真に、座席番号を示す銘板が添えられている。

飛行機や鉄道が好き。といっても、機械の性能に興味はない。時刻表にもあまりそそられない。関心があるのは旅の文化。旅の文化の写真を眺めながら、そう気づいた。

文化と言っても、何かピンと来ない。機械の性能ではないし、デザインだけでもない。車窓の風景でもない。それらのすべて、それらの総合、といったところで言い当てたことにはなっていない気がする。もちろん、機械なくして現代の、私の旅は考えられない。歩くだけの旅というものはない。

何かに乗って旅をする。歩かずに移動するところ、運動のない余暇に文化が生れるのだろうか。

クルマを失くして、鉄道に乗る機会が増えた。夏休みには寝台列車に乗ることにした。乗り物に揺られて、しかも自分で運転する必要がないというのは、考えごとにはちょうどいい。

写真は、夏の日陰。撮影したのは、夏を先取りしたような梅雨の前の頃。


8/11/2007/SAT

奇子(上下)(1971-1973)、手塚治虫、角川文庫、1996

図書館にはマンガも置いてある。家の近くにある大きな図書館では、マンガはほとんど閉架にある。それでも、常にほとんど貸出中。職場近くの小さな図書館では、開架書棚にぎっしりつまっている。『奇子』はそこで見つけた。

手塚治虫におどろおどろしい大人向けの作品があることは知っていた。これまでにも『アドルフに告ぐ』『陽だまりの樹』は読んだことがある。『奇子』の書名は、聞いたことはあっても、恐怖漫画かと思い、手に取ることはなかった。

作品の舞台は、戦中から戦後の混乱期。その点では『アドルフに告ぐ』に似た空気が流れている。アイデアの奇抜さではそれ以上。でも構成の上では、後半に視点が分散し『アドルフ』ように最後まで続く駆動力はない。

解説でも、その点に触れている。その指摘には同意するけれども、その理由を農村と都会の違いに求めることまでは同意しかねる。農村にはびこる不気味さが都会に感じられないのは、それが都会にないからではない。農村の不気味さは、都会からしか見ることができないというに過ぎない。

農村の不気味さを農村で見ることができないように、都会の不気味さは都会のなかで感じることはできない。都会に暮らしている人々はそれに溶け込んでいるから。農村の人々がそうであるように。また、第三帝国の恐怖にも、そのなかにいる限り気づくことが難しかったように。

不気味さは不条理と言い換えることもできる。都会では、不条理はずっと洗練された姿のなかに隠されている。都会化は脱魔術化と同じではない。都会化は、異なる姿の魔術化のこと。実際、DVも近親相姦も、そして尊属殺人も、都会化とともになくなるどころか増えているようにさえみえる。


目に見えない、自分ではどうすることもできない不気味な力に導かれて生きる人々。手塚治虫の作品には、そうした人々が数多く登場する。そうした力を、「宿命」と呼んでもいいかもしれない。

宿命に逆らえば逆らうほど、宿命の下に生きていかざるを得なくなる。言葉の綾を辿れば、宿命に逆らわなくなるとき、人は宿命から解放されることになる。

そういう心地よいお説教を見つけることはやさしい。

手塚治虫は、そうした安直なお説教をしない。宿命に逆らうことを止めても、宿命に追われたり、破滅することがわかっているのに宿命に逆らいつづけたり、登場人物はいつまでも解放されない。年金生活の老後に爆弾テロで殺されたアドルフ・カウフマンは前者、最後まで幕府の侍として生きた伊武谷万次郎は後者の典型。

選考する側にではなく、選考される側にいつづけたいという手塚治虫の言葉を聞いたことがある。

最高の力を発揮できなくなったときに引退するスポーツ選手は潔い。傑作、名作といわれる作品を出してしまったあとも創作を続ける人も、表現者として潔い生き方ではないか。もっとも、それは手塚にとっては、逃れられない宿命だったのかもしれない。

写真は、横浜の港、山下公園から出航する遊覧船、マリーン・シャトルから見たマリン・タワー、氷川丸、ホテル・ニューグランド。20年ぶりで乗船した。


8/18/2007/SAT

天才はいかにうつをてなずけたか(Churchil's Black Dog)、Anthony Storr、今井幹晴訳、球龍堂、2007

新聞書評で知った。ちょうど鬱という言葉に反応する時期だったので、早速図書館で予約した。新聞で書評になる話題の新刊だったので、順番が来るまで少し待たされた。借りたあとも、次にたくさん待っていると思うと何となく落ち着いて読むことができず、走り読みして返した。

「天才はいかにうつをてなづけたか」という邦題は興味を引くし、内容もけっして外れていない。でも、この問いに対する直接の答えは本書にない。鬱がどのようにして創造力に変わるのか、つまり、凡人はいかにして天才になるのか、本書を読んみてもわからない。誰か影響力のある師との出会いが人を変えるのか、本人の努力によるのか、それとも想像力や鬱から抜け出す努力そのものも、病的な資質の一部分だったのか。読み込めなかったせいもあり、疑問は残る。


本を返してしまったあとで、忘れずに印象に残っているところがあることに気づいた。それは、抑圧的で暴力的な収容所看守をしていた人で、のちに精神的に病気になった人はほとんどいなかったという逸話。忘れるということは異常ではなく、むしろ人間の健康的な心の作用であることを知った。

何かを忘れられずにいる人がいる。同じことをすっかり忘れてしまう人もいる。忘れてしまった人は、忘れられずにいる人を、「いつまでもこだわって」となじる。忘れられずにいる人は、忘れてしまった人を「恥知らず」と責める。政治的なこと、倫理的なことでは、とくに最近、忘れないでいることが正しいことのように言われやすい。

しかし、忘れてしまっている人に向かって、あなたは忘れていると言ったところであまり意味はない。しかも、その人は自分の意志と無関係に、自分の身体と精神を守るために忘れているのかもしれない。より正確には自分でも気づかないうちに忘れたふりをして、記憶を身体の奥底に隠しているのかもしれない。そういう人に向かって隠している記憶を晒せ、と要求することは、忘れろということと同じくらい暴力的なのではないか。


忘れないでいること、忘れてしまっていること、どちらも、ある中立的な心理状態にすぎない。どちらも何ら特権的な状態ではない。互いに相手を責める権利はない。人はそれぞれに、忘れられないでいることもあれば、忘れてしまっていることもあるのだから。人はそれを自分の意志で選択できない。

忘れたことさえ忘れていたことを、小さなことをきっかけに突然に思い出すこともある。そうしてふと思い出したことをきっかけにして、人生そのものが大きく変わることもある。何を忘れないでいるかを選べないように、いつ思い出すかも、人は選ぶことができない。


忘れてほしくないことを、忘れないでと訴えることに意味がないとは言わない。ただし、意味があるのは、その伝え方にであって、忘れないでいることそのことにあるのではない

忘れないということにこだわりすぎると、過去の事象の特殊性にとらわれて、いま目の前にある似たような事象を見過ごすことになりかねない。「あれとこれとは次元が違う」「こんなものじゃなかった」。量の多寡を比較するばかりで、質の相似に目が行かない


大切なことは、いま目の前で起きていることが正しいかどうか判断できることであって、過去の出来事に学ぶということは、その目的があってはじめて意味がある。つまり、今、より悪いことをせず、より善いことをしようとしているのなら、過去のことはすべて忘れていたってかまわない。そう思う。

少なくとも、忘れません、とか、二度と同じ過ちを繰り返しません、などと言いながら、「あれとこれとは違う」と言い訳をして同じような罪を繰り返すより、はるかにましだろう。

ここまで書いて、森有正が「霧の朝」(『エッセー集成3』)に書いた、「法律などあってもなくても、平和が大切なのであり、敗戦があったろうがなかったろうが、平和は大切なのである。」という言葉、そこへと続く体験主義への痛烈な批判の意味が、ようやくわかったような気がする。

写真は、横浜港の船上から見た水平飛行するかもめ。


8/25/2007/SAT

今すぐ乗りたい!「世界名列車」の旅 、櫻井寛、新潮社、2007

一度は乗りたいベスト20 豪華列車の旅(「日経おとなのOFF」特別編集 OFFムックSPECIAL)、櫻井寛写真・文、日経ホーム、2007

西の旅 Summer 2007 Vol. 14 列車だから、旅は楽しい、京阪神エルマガジン、2007

鳥取に旅してきた。往路は飛行機、帰路は寝台車に乗った。列車旅行の前に、気に入っている鉄道作家、櫻井寛の本を読み気持ちを高めた。一冊は、日経新聞の連載の続編。もう一冊は、カラー写真の多いムック。列車はもちろん、笑顔の乗務員の写真が旅の楽しさを伝える。

豪華列車の楽しい旅行記を読んでいると、「贅沢は素敵だ」という言葉が思い浮かぶ。屈託がなく、気負ったところもない。

サンライズ出雲は、夜8時に米子を出発する。思ったより揺れるのでベッドに寝ると、進行方向に沿って横たわっているせいか、それが快い震動になり、すぐ眠りについてしまった。

目が覚めるとまだ富士川。列車が遅れたため、そこから東京までに、米子から羽田までの飛行時間より長い時間があったのに、ずっと短い時間に感じられた。

櫻井は、札幌からの上り列車、郡山で、まだ上野に着かないことがうれしいと書いている。起きている時間が短い寝台列車の旅は、のんびり楽しむために少し経験がいる。慣れないとそわそわしているうちに着いてしまう。

写真はサンライズ出雲、285系電車。遅延の結果、ラッシュの都心に入れずに品川駅止まりとなった。


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