烏兎の庭 第一部
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8.28.02

声に出して読む日本語 2、齋藤孝、草思社、2002


前作がベストセラーになったせいで、どんな作品を載せるべきか、いろいろなところで話題になったり投書があったりしたようだが、不毛な議論だと思う。あれが載ってない、あれが載るべきだなどというのは、自分のたいして深くもない知識を精一杯披露しようというつまらない顕示欲にすぎない。

『声に出して』はあくまでもアンソロジーであり、また文学への入り口なのだから、自分なりの声に出したい作品があれば、それを自分で読めばいい。この本だけが入口ではないし、ましてこの本が文学の世界のすべてを体現しているわけではない。


教科書からいわゆる文豪の作品が消えることについての議論も、同じように不毛に思える。文学への入口は国語の教科書だけというわけではないだろうし、そうあっては困る。小説を読むなどかつてはしばらく前の漫画、今の携帯メールや出会い系サイトのように「不良」のすることのように言われた時代もあった。

十代の間は、「教科書にのってる小説なんかくそくらえ」と思っているほうが普通。そうだとすれば、教科書から外れたほうがより自由に読まれるのではないだろうか。

古くて読みづらい作品が疎んじられるという懸念があるかもしれないが、荒川洋治が先日ラジオで話していたとおり、それはある意味、仕方のないことではないか。教科書で無理に押しつけたところで忘れられる作品は忘れられる。教科書に載っているかどうかではなく、作品じたいの価値で淘汰されることがやはり自然だろう。


教科書について話題を広げると、歴史の教科書の論争もまた的外れな論争になっている。学習の場は学校だけでないはずだし、学校に限ってみても教科書だけで学習の内容が決まるわけではない。

自分の経験からいえば、とくに社会科では、教科書はほとんど使われず、もっぱら教員の語りや板書で授業は進められた。だから、どのような教科書であれ、教員がどのように授業をするかが重要なはずなのに、議論は一種の「言葉狩り」に終始している。

極端なことを言えば、教員は「この教科書はある種の政治的意図があって選定されたものなので、授業のなかで修正していきます」と宣言することもできる。

一つの行為を「進出」と言おうが「侵攻」と言おうが、その時どんな逸話を同時にするのか、どんな写真を見せるのか、どんな史料、参考図書を提示するのか、それによって受け止め方はまったく違ってくるはず。


どうも歴史の教科書問題は、ある教科書をめぐって賛否両論まきおこしているようにみえながら、結局のところ、賛否両論をそれぞれ支える出版社や新聞社の話題づくりを手伝わされている気がしてならない。煽り煽られ、議論はどんどん逸れていく。

予備校で出会ったある世界史講師が、「新大陸の発見」を「大航海時代」と言葉だけ換えたところで歴史が変わるわけではない、と語気を強くして語っていた姿を思い出す。

心に今も残っているのは教科書の記述ではない。まさにその伝え方



uto_midoriXyahoo.co.jp