本を読む前に、荒川洋治、新書館、1999


荒川洋治は怒っている。これまでに読んだ『夜のある街で』『文学が好き』とはだいぶ違う。確かに他の著作や、ラジオ・コラムでも荒川は舌鋒鋭く批判を展開する。しかし、たいてい文章は控えめだし、声色も穏やか。

ところが、本書前半に収められた文章は、いつになく激しい。作家、批評家、編集者から読者まで、批判というより非難に近い筆致で攻撃する。

ノーガードでストレート・パンチを繰り出す戦闘姿勢を見ていると、その分、弱点というわけではないけれども彼の姿勢の特徴がみえてくる。それは初めて感じる詩人への違和感だった。違和感といっても、反対の意見というわけではない。同じ状態を見て違う表現をしていることもある。

荒川は、最近の文章には自分ばかりが押し出されていると書く。自分の苦労、自分の展望、自分の文学観、そんなものばかりが前に出て、社会との接点や文学全体における使命感が感じられない(「自作ばかりの風景」)。作家ばかりではない。専門家たちはアンケートで、自分の友達、自分の専門分野ばかりから推薦図書を選ぶ(「『透明な』アンケート」)。文壇論壇は今、自意識過剰。

荒川の観察する事態に異論はない。ただ、おそらく根本の原因は同じところにあるかもしれない、現在の文壇、論壇の異常な風景は、私には反対の色で映る。メディアでの文章、発言一般に自分がいない、自意識希薄に私には感じられる。あるいは悩む姿がない、と言ってもいいかもしれない。

同じ人が文学や政治だけでなく、タレントのスキャンダルからグルメまで語る。深刻な犯罪を追及をする人が、バラエティ番組でタレントとはしゃぐ。そこには一貫した自己がない。にもかかわらず、表現者は一貫した自己を強調したがる。あたかも自分には悩みがないように振舞う。いま売れているのは、成功体験の本ばかり。あるいは逆境を克服した話ばかり。成功した体験をもって、著者はまだ成功していない分野にまで成功者として発言する

巷には悩める人が溢れている。ワイド・ショーやニュース・ショーは、悩める人々を毎日特集している。ところがコメンテーターは、彼らに同情しない。もしかしたら彼らと同じ悩みをいつか持つかもしれないとも言わない。彼らの発言はいつも、「私はそれを克服した」か、「私は違う世界にいます」。

こうした傾向は、発言者一人一人の責任というより、メディアの世界が、表現を切磋琢磨する場ではなく、産業社会や学校社会と同じように、激しい競争社会になっているからだろう。弱々しく見える人はイジメられ、ふるい落とされる。

ところで、「文学が好き」という荒川にとって、文学とは何なのか。『文学が好き』に続いて本書を読んで、荒川が好きな文学とは、文芸、芸事ではないか、という気がしてきた。

芸事だから、文壇という共同体があり、文学史という体系的な歴史が成り立つ。そこには共同体の掟があり、継承されるべき伝統がある。共同体がしっかりしているから、異端としての「一発屋」が共同体の硬直化を防ぎ、外界との換気口を取り持っている。明治以降のすべての文学雑誌を網羅する「雑誌一覧表」を作ることができるのも、日本文学が一つの体系をもつ世界として認識されているから(「ほどよい『雑誌一覧表』」)。

荒川は、文学を一つの芸の世界と見ている。そして、本も一つの特別な世界と見ている。

荒川は、あとがきに家族への感謝を書く「おのろけ」が増えていることを嘆く。その一方で、「気骨の思想家であり、編集者としても活躍した」作家が、上梓に携わった裏方の人に謝辞を贈ることを、「本ができるまでの、もろもろの現場の苦労を知る人らしい言葉」と賞賛する(「この場を借りて」)。ここから、彼が文学だけでなく、本の世界を一つの共同体と見ていることがわかる。

本は、著者だけでなく、編集、装丁、造本、印刷、製本、宣伝など出版業務に関わる多くの人々の働きがあってはじめて読者に届けられる。それは紛れもない事実。しかし読者からみれば、著者も出版関係者も本をつくる側にいる。著者が、創造の手助けになった人に感謝を述べることが「おのろけ」ならば、出版までに世話になった人に感謝を述べることも、読者から見れば内輪の「ごあいさつ」に過ぎない。もっとも、その言葉が作品の一部というなら、話は別。

たとえば家電製品を買うとき、販売員は誰に礼を言うか。「この製品ができたのは、メーカーの企画、設計、製造、流通、そして店舗の関係者のおかげです、彼らにまず礼を言います」と言う販売員はまずいない。販売員は、誰より顧客に礼を言うはずであり、その他の関係者に礼を言うとしても、客の前では言わない。なぜなら、顧客以外はすべて製品を作り出す側の人間だから。

製品あるいは商品。金で取引される以上、本は商品としての性格も備えている。それ以外の面があることはもちろん否定しない。ある人は新品を買い、ある人は古いものを買い、ある人は公共施設で同じものを無料で借りられるような商品は、ほかにはあまり思い当たらない。

だから荒川が本について、金で取引される面とは異なる一面に注目しているとしても、間違いではない。私は、買い手、読み手の側にいるので、商品としての本という意識が強いのかもしれない。

文学の世界は、多くの人々が関わる本の世界によって支えられている。荒川が素人の文章表現や創作活動についてほとんど論評しない理由も、おそらくここにある。また、翻訳文学に著者の詳しい経歴を求めるのも同じ理由から。文学は、本になって意味がある。

文学とは、文芸のこと、本のこと。異論をはさむ余地もありそうだけれど、荒川個人の文学観とすれば、目くじらをたてるほどでもない。私にとっては、問題は、文学とは本に著される芸であるとしても、思想はどうだろうか、ということ。

思想は文学の一部か。それとも文芸の一部が思想なのか。本に著されたものだけが思想と呼べるのか。荒川洋治は、ふだん一番、読み、聴いている作家。いろいろ聞いてみたい。でも、少し怖い。なぜなら私は荒川洋治のファンだから。

読んだら本をどんどん捨てていく。そういう光景をとてもよく見かけるようになった。ファンとはいっても読者ではない。ただの消費者だ。消費者の世界を読者の世界と混同してはならない。純文学でも大衆文学でもかまわないが、読者の名にあたいする人たちがいないところでものを語るとしたら、それは大衆を見失うことだろう(「まぼろしの読者」)。

痛い。荒川のボディー・ブローが効いてきた。図書館で借りて読んでいる私は消費者どころか貸出人でしかない。今の私に本や文学について語る資格があるか。

倒される前に何とか反撃。最後の一文はわかりにくい。読者のいないところは、愚かな消費者ばかりということか、それとも消費者の中にも「読者の名にあたいする人」がいるということだろうか。それとも大衆のなかにこそ、新たな読者が見出されなければならないということか。

表紙のなかに、向かい合った鏡のようにどこまでも本書が続いている。読者になる前から自問を続ける貸出人のよう。


碧岡烏兎