岩波講座文学1「テクストとは何か」、小森陽一、富山太佳夫、沼野充義、兵藤裕己、松浦寿輝、岩波書店、2003


文章で表現するとは、どういうことか。文章を書くことには、どんな意味があるのか。文章を、売り物としてでもなく、自分ひとりのためだけでもなく、無償で公開する意味は何だろうか。そんなことが、しばらく気になっている

さらに、「作品」とはいったい何なのか、という疑問も頭から離れない。文章は言葉や文の単なる寄せ集めではない。言葉や文の集め方や並べ方が文章を生み出す。どのような集め方、並び方が文章を作品にするのか。


問題は二系統。一つは、書くことの意味、作品の定義。もう一つは、公開する意味。つまり、読ませることの意味と読まれるという意味。これらが混ざり合い書くことについて不安をかきたてている。

本書は、そうした不安を取り除いてくれるかもしれないと期待した。確かに疑問を解くいくつかのヒントを与えてくれたように思う。しかし同時に、さらに深い不安の淵も覗き込んだ気もした。その理由は、本書が本格的な研究書で、該博な知識と緻密な読解力を要求するものだったから。

自分の関心事と重なっているとは言っても、それぞれの論文は非常に狭い主題を扱っているために、直接に思索の題材にはなりそうにない。しかも、どの論文もたくさんの文献から引用し、それらの材料を事細かに論じる。それも、私は知らない作家や専門家、本の名前や書物の名前ばかり。興味があるのに何もわからないので、疲れるだけでなく、情けなくなってくる。

これらは「無駄な知識」ではないか。もちろん、私にとって無意味だとしても、研究者にとってはどの引用も無駄ではないのだろう。ある一つの命題を論証するために、これだけの知識を動員しなければならない。それだけ学問の世界は細分化し、それぞれの分野が独立して体系化している。

これは学問が進歩した結果避けられない悪弊だろうか。必ずしもそうではないように思う。物理学が原子を構成するさらに小さな粒子を探求していったように、知識を求めていけば、それが正しい設問であればなおさら、焦点を絞った探求とならざるをえない。そうして針の先のような焦点から得られた知識が物理学全体を書き換えている。人文科学でも同じではないだろうか。

問題は、従って、学問が細分化されてしまったことではない。それぞれの研究がその分野で向かうべき問題にきちんと焦点をあてて、その分野を体系化させているかということ。これは学問論に限ったことではない。「作品」についても言える。


「開かれた作品」という言葉が本書に何度か出てくる。「開かれた作品」などあるだろうか。「作品」とは必ず閉じているものではないか、と私は思う。閉じられて、ある体系、ある世界をもっているからこそ、開かれた読書、多様な解釈を可能にするのではないか。つまり、「作品」は閉じられているべきではないか。

「作品」は「記録」ではない。人間の意志によって創り出されるもの。文章には筆者の、全集には編集者の意図が入る。その意図が明確でなければ、読書は茫漠とした言葉の海に溺れるだけ。どれほど他人には無駄に見えても、作品を生み出すという意志がなければ、作品は生まれない。そうした決意をもつ主体は個人であるとしても、その個人は開かれた個人、つまり多面的な帰属意識や問題意識をもっていて当然。むしろ、それ故に閉じられた作品世界を切望するのだと思う。

作品とは、多面的な意識をもつ個人が、閉じた体系を希求して創り出す世界。私のなかでは、一応そう定義しておける。従って、私にとって作品とは、文章の体裁ではなく、書く気持ちについての規範。書けばなんでも作品になるというわけではない。「作品」を書こうと意識して、はじめて作品が書ける。印刷されるとか本になるとか、そういうことは問題ではない


「テクストとは何か」を問う前に、各章の論文は、本という媒体は非常に歴史が浅く、近代になってできたものであることを明らかにしている。執筆された後、校正され、編集され、印刷され、製本され、そして流通される。こうした工程の複雑さや広がりが可能になったのは、グーテンベルグの印刷技術だけではなく、商業面、技術面でのさまざまな革新があったから。それ以前の時代では、文章がほかの人々の眼に触れるためには手書きで転記されなければならなかった。本は近代資本主義があってはじめて成立し、その隆盛とともに成長してきたということもできる。

そのように考えると、確かにインターネットは、ここ数百年文章表現にとって支配的であった本という媒体を反故にしてしまう可能性すら秘めている。文章は書かれたそばから校正も編集も印刷も製本もされずに、そのまま読者の目前へ届けられるのだから。

同時にインターネットは、「作品」という自立した表現空間を無化する可能性も秘めている。桂英史「ハイパーテクストなど存在しない」は、書物という形式に閉じ込められた従来の文章とは違い、ウェブ上の文章は、個々のサイトに存在する作品である以上に、巨大なデータベースに置かれた資料でしかないとまでいう。確かに、サイトに囲われているといっても、読者は必ず「表紙」から訪れるわけではない。別のサイトから飛来してくることもあるかもしれない。途中で読むことを止めることもあるだろうし、著者が置いたリンクから別の場所へ飛んだまま、戻ってこないかもしれない。

そうだとしても、それは本でも同じこと。ぱらぱらと拾い読みすることもできるし、途中で他の本を読むこともできる。ネット上の文章の特徴は、他の文章とつながっているということにあるのではなく、むしろそれゆえに、いかにその文章を読ませるか、「作品」としての吸引力が純粋に試されるという点にある。


「作品」が独立した「作品」としての輝きをもっていなければ、ネット世界という銀河全体が光り輝くことはない。美しい織物も、一本一本細くてもきれいにしっかりと撚り上げられた糸によって織られている。ウェブという語には、そういう含意がある。

再生音楽の世界でレコードやカセットテープがコンパクトディスクに置き換わったときにも似たようなことが言われた。途中から聴くことも、作者の意図とは違う曲順で聴くこともできる。「アルバム」という「作品」は体をなさなくなるのではないか、そう危惧されていた。現在ではランダムの曲順で聴くだけではなく、任意の曲だけをデジタル的に抽出することまで可能になっている。

それでは「アルバム」という製品単位がなくなったかというとそうでもない。曲間をなくして無理やり規定の順序で聴かせるアルバムもある一方で、作品それ自体の魅力で初めから終わりまで聴かせるアルバムも確かにある。

端的に言って、面白いサイトは拾い読みだけでは飽き足らず、隅から隅まで見たくなるもの。プロの作家のサイトであろうと、個人サイトであろうと、事情は変わらない。短編であろうと、作品の集合体であるサイトや全集であろうと同じ。

作品が一つの作品として完成していること。その成否は、作者が一つの作品を作ろうという意志にかかっている。そうとしか思えない、いかにそれが他人には無駄な努力に見えようとも。

その意志をもち、努力を重ねているか。問題はより切実になってきた。


碧岡烏兎