魂の労働――ネオリベラリズムの権力論、渋谷望、青土社、2003


最近、読みはじめたメールマガジン「(本)のメルマガ」で紹介されていた本。著者自身による紹介文から気になり読みはじめた。

権力論と労働論。社会学の分野でいえばそうなるのだろう。「働く」とはどういうことか。お金をもらって働く、とはどういうことか。あるいは、お金をもらわずに、働くとはどういうことか。そんなことがしばらく気になっていたので、労働をめぐる最新の統計や研究者の意見を整理した前半部分を読みながら、もやもやした気持ちが晴れていくような感じがした。

といっても、渋谷が解説する現代、というより21世紀初頭、現代の労働状況はかなり絶望的。それでも、説明が与えられ、絶望的な状況を把握するだけでも、ある程度すっきりした気持ちになるから不思議。


かつての、フォーディズムと渋谷が括る時代には、労働が強制された。「働かざる者食うべからず」が標語となり、学校では勤勉な労働者が育成され、工場では勤勉な労働が監視された。対して現在のポスト・フォーディズムにあっては、労働はもはや強制されない。それは喜んでするものとして、人々の内面に埋め込まれている。

労働は「働きがい」や「生きがい」を求めて率先してするもの。だから努力も報酬も労働の対価として全面的に肯定される。働くことは自己実現や自己表現である、という言い方を最近よく聞く。それどころか、報酬がなくても、喜んで、進んで働くことさえ奨励されている。サービス残業やボランティアがその例。

そこでは、「働かざる者生きるべからず」が標語となる。以前のように全員が労働することは、もはや期待されていない。働かない者は切り捨てられる。スラムに追いやられ、生活保護は剥奪され、ただ死を待つだけの身に放置される。

勝ち組、負け組という単純な分け方ではすまされない。現代の状況が絶望的なのは、勝ち組が一方的に勝っている、つまり負け組の不幸を犠牲にして幸福になっているわけではないから。勝ち組は激しく労働し、激しく消費する。何かに強制されてしているというわけではない。それが幸福だと自分で思うように慣らされている。一方は機械のように労働と消費を繰り返し、他方は道端の草のように見捨てられている。どちらも人間的な暮らしではない。


そのような状況を抜け出す道はあるのだろうか。それを考える前に考えるべきことは機械のような勝ち組でも、自然のような負け組でもない生き方とはどういうものか、ということ。それはおそらく、何もしないこと。

例えば、スロー・フードやスロー・ライフといった言葉をよく聞く。ゆっくり食べる。のんびり暮らす。それは怠惰というよりは、もっとも贅沢な生き方。もちろん、もっともお金がかかる生き方でもある。食べ物だけをとっても、自然にできたものを手をかけて料理して食べるほうが高くつく。養殖され、加工され、缶詰にされた食べ物のほうがずっと安い。同じことは衣食住すべての面でいえる。

だから、いちばん幸福なのは何もしないでいられるうこと。それができるのは、途方もなく裕福な人か、完全に打ち捨てられた人。そのあいだにいる人は、機械化人間となり生きがいのために死ぬまで働き、死ぬまで買い続ける。安い給料で安いものを、しかし大量に買い込む。そうするより、働いた証にならないし、生きた証にならないから。

もはや信じているのか、そう仕向けられているのか、自分ではわからないほど、その状況に慣れ親しんでいる。


絶望的な現在の状況を抜け出すには、二つの道がある。何らかの方法で何もしないで暮らしていける財産を手に入れるか、今すぐ何もしないか。どちらにも危険な罠がある。前者の道を進むと、機械化人間にいつのまにかなってしまう可能性がある。恐ろしいのは、なってからではもう気づくことができないし、気づいたところで逃れることはできない深みにはまっていること。

後者の道は、もちろん生存が危うい。食べていけるか、というだけでなく、打ち捨てられた人々のあいだで過ごすことは、追いはぎや狼の住む森にいるようなもの。まして、同じような状況にいながら、何もしないでいることを楽しんでいるように見えれば、彼らの憎悪が直接に向けられる標的になりかねない。学校からはみだした生徒たちがホームレスを襲ったという報道が思い出される。

こんなふうに考えながら読みすすめていくと、現在の労働事情を現代思想の最新用語を駆使して整理する緻密な前半に比べると、今後の道筋をつけるために書き下ろされた終章はやや性急にみえる。労働消費の機械化人間でもなく、自然化された世捨て人でもない生き方を、スラム街で生まれたヒップホップを例にしながら、渋谷は考える。しかし「後にヒップホップは消費文化へ吸収される一方で、ブラック・ナショナリズムにも接合されていった」ということも認めている。

この一節はヒップホップが多様な文化を抱えたサブ・カルチャーだったことを説明する文章を導く譲歩として書かれているけれど、見逃せない重要性をもっている。なぜなら、ヒップホップだけでなく、あらゆるサブ・カルチャーやアンチ・カルチャーは、消費文化ナショナリズム、すなわち経済と政治に吸収される傾向があるから。現に、アングラ劇、アニメ・オタク、ネット掲示板など、これまでのさまざまな試みが、同じ道をたどっているように見える。


そうした政治にも経済にも吸収されない生き方を、渋谷は「手に負えないスタイル」という言葉にこめている。

誰にもマネできない「手に負えないスタイル」を有したマイノリティになること。固有性(singularity)を獲得し「サムバディ」になること――これは多数性の力を増殖させることでもある。(終章 <生>が労働になるとき)

この結論に異論はない。こうした試みはこれまでもなかったわけではないし、今もあちこちでなされているに違いない。問題は、そうした個人個人の試みが、なぜ、どのようなメカニズムによって、アルバイトや副業を通じて再び労働機械に落ち込んでしまったり、ある種の政治行動や組織的な運動に吸い込まれてしまったり、要するに手に負えないどころか、手なづけられてしまうのか、そうでなければ、向上心も自己批評もない空しい反復運動に陥るのかという点にある。

「手に負えないスタイル」が明確になればなるほど、職業として成り立つ可能性は高まる。同時にそれは職業のなかに埋め込まれる危険が高まることも意味する。街角のガラクタを集めてヒップ・ホップをはじめた人たちや、商店街でギターを弾いて歌う人たちも、技量が高くなれば人が集まり、やがては商業的な舞台へ押し出される。そうなると、もう好き勝手にするわけにはいかない。締切り、契約、コンサートなど、スタイルを手に負える形になおす必要に迫られる。

こうしたことは知的労働でも同じ。波止場で荷役をして働きながら本を読んだり思索を日記にしたためた人のように、あくまで自分のスタイルのためだけにしているつもりでもその思想が明確に鋭敏になるにつれ注目を浴びるようになり、人に請われて本を書いたり学校で教えたりするようになる。


スタイルが、手に負えないものから、手なづけられた形に変容する過程は複雑。人々の賞賛によって押し上げられるばかりではない。羨望と嫉妬によって引き上げられる一面もある。もちろんそれはあとで突き落とすため。そうならないためには、羨望と嫉妬にもだえる機械化人間たちに見つからないように、彼らの群れの中に溶け込まなければならない。

機械化人間たちは、自分たちのように過激に労働したり消費したりしないで、無償で楽しそうにしている人が気に入らない。学校からはみだした子どもが、同じように労働消費社会からはみだした世捨て人を憎悪するように、彼らには、手に負えないスタイルが我慢ならない。

恐ろしいのは、高度な消費文化を謳歌する機械化人間たちの攻撃は、疎外された子どものような暴力的な攻撃ではなく、より洗練されていて、より毒素が強いこと。

沖仲仕の哲学者批評の神様など、とってつけた称号が捧げられ、メディアから出演依頼が殺到し、知識人だの文化人だのと呼ばれ、作品が売れるようになる。つまり、手に負えなかったはずのスタイルが、いつの間にか消費される商品になる。そうしてスタイルは消耗しスタイルをもっていた人は疲弊する。完全に手なづけられたとき、それは、お払い箱になるとき。適当なスキャンダルとともに週刊誌の埋め草となり、読み終わったら捨てられる。

もちろん、すべての手に負えないスタイルが、手なづけられてしまうわけではない。機械化人間の群れに混じりながらも染まりきらずに、スタイルを堅持している人もいないわけではない。それどころか、数は多くはないとしても、まわりにいる機械化人間たちを、その輝きで目ざめさせるような人さえいる。

社会の周縁や最下層からメディアの寵児になるような人は、極端な例かもしれない。多くの人はその中間にいる。それでも事情はかわらない。手に負えないスタイルを求めようとしても、あるいは、それに務めるほど、スタイルが手なづけられてしまう危険と誘惑は後を絶たない。それを払いのける手立てはあるのだろうか。


人は暮らしていくためには何らかの職業につくのは自然なこと。そしてあらゆる職業には、その職業固有の論理がある。どんな職業でも、楽しみ、働きがい、報酬、評価がある。職業に内在しながら、その論理にとりこまれず自分のスタイルを維持することは簡単なことではない。

スタイルを磨く場を職業とは別にもつことも辛いけれど、スタイルを磨く場と職業が一致することも、必ずしも幸福とは言えない。苦労はきっとより大きい。まして知的労働はもっとも働きがいが内面化されやすく、それだけ労働じたいが自己目的化されやすい。思想の深さとはまったく関係がないはずなのに、書いた本の数や、その売れ行きに気をとられかねない。

実際、あとがきで渋谷は、自分自身、失業状態で苦しんだことを告白している。そのあいだにあたためた労作が大学教員となった現在、著書として販売され、日の目をみている。つまり彼自身、世捨て人の道ではなく、富裕への道ではないにしても、職業を得て働きながら「手に負えないスタイル」を模索する道を選んだということ。

それは、渋谷が最下層の人々が「手に負えないスタイル」を模索する例を持ち出しているにもかかわらず、彼自身は最上層でも最下層でもなく中間にいることを示している。これはけっして皮肉ではない。もっとも多いのは中間にいる人々だろう。というよりも、欲望と絶望には限りがないとすれば、すべての人は無限の裕福と無限の飢餓のあいだにいる。

だから、すべての人は機械化人間と自然化人間に引き裂かれているといえる。そのような中間に生き続けることは、矛盾に耐えると同時に、手に負えないスタイルを求めて渋谷が選んだように、機械化人間でも自然化人間でもない、人間的人間を模索する苦難の途にもなりうる。

“over ground”でもなければ、“under ground”でもない、“on the ground”、すなわち、この地上。ここを出発点にするしかない。いま足をついている場所だけが歩きはじめる地点になる。


こう書き終えてみると、読み親しんだ絵本『きょうは みんなで クマがりだ』(マイケル・ローゼン文、ヘレン・オクセンバリー絵、山口文生訳、評論社、一九九一年)で繰り返されるわらべ歌を思い出した。

うえを こえては いかれない。
   したを くぐっても いかれない。
   こまったぞ!
   とおりぬけるしか ないようだ!

絵本では、草原、泥沼、川、吹雪をかきわけていく楽しげな擬態語が続く。

かきわけていく音が、スタイルをつくる旋律になる。


碧岡烏兎