藤村随筆集、十川信介編、岩波文庫、1989


山形孝夫『死者と生者のラスト・サパー』(朝日新聞社、2000)を読み、書評を書いた。書評のなかに森山啓『谷間の女たち』(新潮社、1989)のことを書いた。それで森山啓のことを思い出し、図書館で借りてきて再読した。

森山啓を読んでいたら、今度は島崎藤村を読みなおしたくなってきた。森山の文章を読んでいると、大正時代の文学青年が明治時代の文学をどのように読み、心酔していたかが伝わる。藤村は、文学史に残る文豪ではまだなくて、同時代の生きている作家だった。

森山は、藤村や透谷を「大先輩」と呼んでいる。親しみを込めた呼び方には、同時に彼らの志を受け継ごうという森山の文学者としての決意を感じる。森山は、藤村のなかに自分の気質や境遇と似たものを感じ取っていたのだろう。

藤村の随筆は、二年前全集で読んだ。面白いところもあれば、少し古めかしく感じるところもあり、今の時代ではあまり読まれないのではと思っていたところ、古書店で文庫を見つけた。驚きながらもうれしくなり、すぐ手に入れた。


森山啓にとって島崎藤村が大先輩だったように、藤村にとっては、北村透谷が大先輩だった。随筆の選集でも透谷を回想する文章が印象に残る。全集で読んだときもそうだった。本書では、さらに二葉亭四迷、斎藤緑雨、芥川龍之介、有島武郎ら、いずれも文学を志しながらも、病気や貧しさや、得体の知れない暗闇にとらわれ斃れていった人たちへ藤村が送った追悼文も集められている。

透谷の死が、藤村が抱いていた文学への志を決定的にしたと言っても言い過ぎではないだろうし、また後になって詩から散文へと表現方法を転じたことにも、透谷の死をどう受け止め、表現するかという内面的な問題が影響していたように思う。

新生は言いやすい。しかしながら、誰か容易く「新生」に到り得たと思うであろう。北村透谷君は「心機妙変」を説いた人であった。そしてその最後は悲惨な死であった。「新生」を明るいものとばかり思うのは間違いだ。見よ、多くの光景はむしろ暗黒にして、かつ惨憺たるものである。(「新生」『新片町より』、1909)

この断章は小説『新生』が書かれるより前に書かれている。「新生」は、その言葉を題名にする作品を書く前に、またそれを書くきっかけになったといわれる事件より前から、藤村のなかでは重みをもった概念だったことがわかる。そしてその重みは、透谷の死に由来していたことも、この断章から読み取れる。


新しく生きる。何から新しく生きるのか。悲しみから自分の弱さから、古い時代、古い制度から。やがて「新生」は、重層的で多面的な意味をもち、藤村の作品を貫くことになる。「新生」は明るいものではないかもしれない。それでも、「新生」を信じ、それに賭けるしかない。

「おそらく彼の生涯は、彼が自分の鬱屈した油濃い体質を克服し、簡素、平俗にいたろうとする苦闘の連続であった」と解説には書かれている。私には、もうすこし具体的な課題が藤村にはあったような気がする。

人生から自ら立ち去った者を悼むエッセイを読んでいると、藤村の文学人生は、自死した人を慈しみ、許しながらも、なお自死を肯定せず、自らも死に引き寄せられながらもその誘惑に抗い、生きることを肯定しつづける登攀の連続だったように思われてくる。

「北村透谷二十七回忌に」では、25年以上前にあった尊敬する先達の死を悼みつつ彼が選ばざるをえなかった選択を批判し、そのうえでなお、その思想に誠実さと新しさを積極的に認めようとしている。

藤村は、自分の詩に対する「否定の悩みではなく、肯定の苦に巣立ったもの」という評価を喜んで受けいれている(「春を待ちつつ」)。「弱いのが決して恥ではない。その弱さに徹し得ないのが恥だ。」という断章も、そのような肯定するための苦闘から生れた言葉の一つと読める。


ところで島崎藤村は、ジャン=ジャック・ルソーを「多くのエライ人の中で、彼は最も吾儕に近い叔父さん」と呼んでいた(「ルウソオの『懺悔』中に見出したる自己」『新片町より』『藤村全集 第六巻』、筑摩書房、一九六七年)。昔、遠い国にいた偉人ではない。たとえそれが作品を通じてであっても、自分だけに生きる知恵をこっそり語りかけてくれる親しい先達。

私にとって、森山啓や山形孝夫は大先輩、島崎藤村は、大叔父さんにあたる人、そう思ってみたい。


さくいん:島崎藤村