烏兎の箱庭――烏兎の庭 第二部 日誌
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2005年9月


9/2/2005/FRI

“Home Position―失われた声を求めて”

第二部に音楽のページを新設

構想は一年以上前から。第一部の音楽のページに、題名だけは入れてあった。

今年の夏になって、曲目はほぼ定まってから、文章がなかなか進まなかった。

ようやく宿題を提出した感じ。

今回も、いくつか題名だけは入れてある。中身は、これからゆっくり。こういう仕事は書き上げてしまうことよりも、考えているあいだが楽しい。

期限のない仕事は、できるだけ先延ばしにするのがいい。確か森有正の文章にも、そういう言葉があった。

写真は、東大寺大仏殿境内に残る天平時代の八角燈篭。


9/9/2005/FRI

体罰、より正確に教員の暴力について

興福寺 北円堂

何度も書きなおした。ここで一度推敲は打ち切り、あちこちに残る混乱や破綻はそのまま、公開する。憶測に基づく展開のようにわざと混乱を強調しているところもある。

一般論ではなく、自分の経験を書いた文章なので随想の棚に入れる。第二部では、別の主題に傾いていたので、この問題についての文章は少なかった。忘れていたわけでも、解消したわけでもない。この暗雲は、ずっと庭の上空を覆っている。

この文章は、3年前に書いた書評「1.5流が日本を救う」の続編。

ここに到る素描は、二年前に書いた日誌、2003年12月16日以降、19日20日22日にも残る。文中にある「狡猾な生存者」という言葉は、書評「吉田満著作集」から。

暴力の受益者という考え方は、学校社会にかぎらない。生きていくこと、とくに個人の影響力が微小でありながら、その広さばかり見渡せてしまう現代にあっては逃げ切れるものではなく、どこまでもつきまとう。このことは、2003年3月24日の雑記にも書いた。

今年の夏は、いつになく体罰事件の報道が多かったように感じた。記事を読むたびに気分が悪くなる。ほかの刑事事件では、そういうことはあまりない。そんななか、いつも読んでいる労務屋さんのブログに目に留まった。

労務屋さんは、指導者が一人で暴走しないように抑制したり、個人の短所を補完するような人事管理が学校にほとんどないことを指摘している。これはその通りと思う。その一方で、企業の場合、目標も成果も秘密も、内部で共有したり、分配したり、隠蔽したりしやすい。

ところがネット上では、被害者をよく面倒見ておけば、あるいはベンチ入りを果たしていれば告発にはいたらずに済んだかもしれないという推測や、殴られて告発した方にもいや、そちらにより問題があると考えている人が少なくない。

ここに論点のすりかえがある。このあたりから、私の不満がくすぶりはじめた。

労務屋さんの記事にはそのようなすりかえはない。むしろ、陳腐な「常識」とは異なる視点で問題の本質を見抜いている。にもかかわらず、ほかの記事の場合とは違って、体罰の記事は読むだけでとても疲れる。

この記事の読後に残る、非常に生理的な嫌悪感は、たぶん、記事のせいではなく、自分の体験を整理できていない深層心理に原因がある。そう思い、この不快感は何か自分の体験から掘り起こす必要を感じて、文章を書きはじめた。


今週、めずらしく夜テレビをつけると、東京MXテレビで『ウルトラマン』の再放送をしていた。第23話、「故郷は地球」。リンク先は、「マン」と「セブン」を見たあとにいつも読み返すシリカゲルさんの批評。脚本は佐々木守、監督は実相時昭雄。

自分も同じ立場になるかもしれないジャミラを犠牲にして、それでもイデ隊員は生きていく。ジャミラの墓碑を前にして苦悩するイデのつぶやき。

犠牲者はいつもこうだ。文句だけは美しいけれど……。

イデはジャミラにとどめを刺すことはなかった。ウルトラマンはひるむことなくその役を果たす。ウルトラマンは、イデの罪を背負うのか。それとも美しい星を汚す者は、たとえそこで生まれ、意図せず怪獣にされた者でも、容赦はしないということなのか。また別の深い問題につながる。


写真は、夏休みに行った奈良、興福寺の北円堂。しゃくなげを写し込むことはできなかったけれど、入江泰吉の一枚をまねて。


2014年6月26日追記。

シリカゲルさんのサイトは、残念ながら今はもう見られない。更新がなくても、ときどき訪ねてみたいページがある。

サイトがなくなっていると、行きつけのお店が急に店をたたんでしまったようでさみしい。


9/10/2005/SAT

映像評「天空の城 ラピュタ」を剪定

映像評「天空の城 ラピュタ」を剪定。

文末、段落を整理。以下の段落を挿入。

   『ラピュタ』にみえる図式は、自然と機械という単純な対立ではない。同じように、大人と子どもの対決という単純図式でもない。シータの言葉は、とても子どもの言葉ではない。そうかといって、技術の無限進化を信じるムスカのような大人の言葉でもない。あえていえば、あきらめた大人の言葉。
  人間は土を離れて生きることはできないと知ったとき、技術の進歩が無限ではないことを知る。あきらめを悟る。そのとき、技術は土を離れずに生きるための知恵に変わりはじめる。シータは、そのことに気づいたばかり。
  そのことに気づくことにより、シータは自然に戯れる子どもではなく、自然と生きる人間になったといえるのではないか。そう考えると、あえて単純な図式にあてはめるとすれば、ムスカとシータの対決は、野心と諦念の対決ということができる。

『ラピュタ』を見ると、いつも気になる場面がある。シータを奪ったムスカは、パズーに金貨を投げつける。貧しいパズーは、悔し涙を流しながらも金貨は捨てられなかった。宮崎作品の主人公は理想的に描かれることが多い。ごくまれに人間臭いところが書き込まれるため、印象に残る。

もっとも、パズーの声、田中真弓は『忍たま乱太郎』ではどケチのきり丸。小銭に目がないのも当然かもしれない。

写真は、まぶしい日差しが照りつけるなか、ようやくたどりついた大阪城天守閣


9/23/2005/FRI

「体罰、より正確に教員の暴力について」を剪定

随想「体罰、より正確に教員の暴力について」を剪定。あちこち追記。

気が重い文章を書いたせいで、次の文章が書きはじめられない。

今日の朝刊は、文科省の調査で生徒から教員への暴力が増加傾向と報道している。日経新聞では「専門家は『忍耐力が低下し、ささいなことで暴力を振るう子どもが増えている』と指摘している。」とある。

子どもを教員に置き換えれば、そのまま私の中学時代にあてはまる。


生徒の暴力だけではない。教員の暴力や犯罪も増えているように感じる。「わいせつ変態教師はすぐ警察に告発し、公立学校制度を原則廃止しよう」では、毎日、信じられないような教員の犯罪が報道されている。曹操閣下さんが怒りを爆発させるのも無理はない。

体罰について反対の立場を鮮明にしている人は、意外に少ない。曹操閣下さんほど過激ではないけれど、体罰問題資料館では、体罰は違法という明確な立場から情報が発信されている。

時代によって、また場所によって、子どもが暴力的になったり、教員が暴力的になったり。

学校という場における人間関係のあり方、権力関係のあり方に何か根本的な問題があるのではないだろうか。


写真は、大阪万博公園に残る丹下健三設計のお祭り広場の遺構。


9/25/2005/SUN

雑評「アメリカ―ホイットニー美術館コレクションに見るアメリカの素顔(Picturing America)、府中美術館」

展覧会と、そこで眺めた画集の感想。

雨模様の連休。初日は来客があり、にぎやかになった。残りは、家のなかでのんびりビデオを見て過ごした。『刑事コロンボ 殺しの序曲』(THE BYE-BYE SKY HIGH I.Q. MURDER CASE, 1977)と『秒読みの殺人』(MAKE ME A PERFECT MURDER, 1978)。後者は何度も見た記憶がある。この作品のおかげで、映画を見るたびフィルム交換を促す右端のパンチを探すようになった。

今日は、何度も見ている『ルパン三世 カリオストロの城』を横目で見ながら、文章を書いた。いまは元デカピンク、ウメ子こと、菊地美香(地は土ヘン)が出演しているNHK『にゃんちゅうワールド放送局』を見ている。

毎週、外国の子ども番組が一つ紹介される。今日は、ノルウェーの子ども番組から、ムンクの短い伝記。ムンクの生涯と芸術は、死の影に縁取られていることを知った。


写真は若草山から見下ろす東大寺大仏殿。



uto_midoriXyahoo.co.jp