アメリカ―ホイットニー美術館コレクションに見るアメリカの素顔(Picturing America)、府中市美術館、東京都府中市

Mark Rothko, Jacob Baal-Teshuva、Toshio Miyamoto訳、タッシェン・ジャパン、2004

Mark Rothko: a consummated experience between picture and onlooker ed. Foundation Beyeler, Hatje Cantz Publisher, 2001

アメリカに学んだ日本の画家たち――国吉・清水・石垣・野田とアメリカン・シーン絵画、岩崎吉一、市川政憲、本江邦夫、尾崎正明編、東京国立近代美術館、1982

清水登之展、武蔵野市・武蔵野文化財団編、武蔵野市、2000


なんとなく気分がすぐれないことにして、午後から会社を休みにして美術館へ行った。実際、ずっとさっぱりした気分ではないので、まんざら仮病でもない。

先週、図書館の階段の壁で、エドワード・ホッパー「ニューヨークの室内」を見かけた。『ホイットニー美術館展』のポスターだった。ニューヨークは一度だけ行ったことがある。メトロポリタン、グッゲンハイム、MOMAは見たけれど、ホイットニーは見なかった。

MOMAへはワイエス「クリスティーナの世界」を見に行った。その頃は印象派前後の近代絵画が好きで、エドワード・ホッパーにはまだ関心はなかった。初めての外国旅行では、古代美術や、いわゆる泰西名画を見てまわるので精一杯でもあった。

いつからか、ホッパーの絵を気に入るようになり、図書館から画集を借りてきて見るようになった。たぶん、ホッパーの原画を見るのは初めて。


ところが、最初に見入ったのは、入場口正面に飾られた「ニューヨークの室内」を通り過ぎた右手の壁にあったロスコ「ナンバー4(無題)」。去年の1月、ラスベガスのグッゲンハイム・エルミタージュ美術館で初めてロスコの作品を見た。この作品も「無題」で、仮題として「白と赤の上の紫、黒、橙、黄」と名づけられていた。構図も、ほぼ同じ。長方形のキャンバスに輪郭のぼかした色が層をなしている。

その作品にロスコのどんな思いが込められているのか、美術史上どんな意味があるのか、彼の画風の何が独創的なのか、そのときはわからなかった。言葉をかえれば、そのときはまだ、そういうことを読み取ることが絵を見ることと思っていた。そして、何もわからないながらも、何か惹かれるものがあり、絵葉書を買って帰った。

遠くから絵を見つけて、すぐにあのロスコとわかった。近づいて、まえに見た絵と同じ画風であることを確かめる。絵が大きい。額縁はない。これが彼のスタイルであることは間違いない。ロスコの絵がロスコの絵とわかって、少しうれしくなる。


何も考えず、ホッパーを目当てに来たことも思い出さないようにして、ひとまわりする。ひとめで気に入った絵がいくつかある。一度見たいと思っていた、ジョージア・オキーフ「白いキャラコの絵」。SFアニメの背景画のような、エルシー・ドリッグズ「ピッツバーグ」、ビルの窓に映る超写実のコラージュ、ロバート・コッティンガム「ラジオ」、そして、キャンバスに描かれた言葉の絵、ジャン=ミシェル・バスキア「ハリウッドのアフリカ人」。

廊下に出ると、大きな机に展覧会の図録や、ホッパーやウォーホルの画集が置いてある。ロスコの画集もある。ロスコは、どんな人なのか。興味をもって、画集のなかから文字のページを開く。

ロシア系ユダヤ人。少年時代の名前は、マーカス・ロスコビッチ。帝政崩壊の直前、家族でアメリカへ移住。大学を中退後、本格的に美術の道へ、後に名誉博士号を授与される。

ロスコは、絵を見ることは、「絵画と鑑賞者の間に生まれる至高の経験」という。見る者のもつ基本的な感情を増幅する絵。彼の絵を前にして泣きくずれる人もいたという。同じ構図で、色と配色だけを変えながら積み重ねられていく作品。各地に残る大壁画。画集をめくると、だんだん暗く、コントラストも少なくなっていく。そして、カトリック教会の大壁画が落成する直前の最期

「ナンバー4」の前に戻る。ロスコが好んだという18インチ手前で絵を見る。黄色、黒、赤の構成が、哀しみを表わしているように感じられる。伝記を読んできたせいだろうか。いまの私の気分がそう感じさせるのだろうか。見ていても、気持ちは沈んでくるばかり。ほかの絵を見てまわることにする。


常設展では、以前にも見た青木繁「少女群舞」で立ち止まる。掌ほどの小さな画面のなかで今にもまわり出しそうな真紅のドレス。正宗得三郎「ノートルダム寺院」は、明るく華やかな絵。松本竣介「ビルの横」は、直線の構成、青が印象的

出会い。配布されている解説シートのおかげで、長谷川利行を知った。今回見たのは「カフェの入口」。またどこかで見てみたい絵。


牛島憲之記念室の特集は、「海と空の風景」。海の青、空の青。目を留めたのは、「ある日」。丸い森から突き出た時計塔。幻想的な着想なのに、色と線が明快で少しも不思議に見えない。青でもない緑でもない、碧という字をあてたい色。作品わきの札を見ると、八十歳を越えてから描いたものらしい。

画風はさまざまな、でも自分の気に入る絵を眺めて歩いてから、もう一度、ロスコの「ナンバー4」に戻る。ロスコは、自分の思いではなく、見る者の、知識でも感想でもない思いを喚起させる絵を求めていた。この色は、何だろう。この絵は、私の中からどんな経験を引き出すだろう。哀しみばかりではないような気がする。

酒の色。黄、黒、赤。ナパバレーのシャルドネ、アイルランドの黒ビール、アラン島のモルト。私の暮らしのなかで、私が色を見つめ、感じるのは、酒を飲むとき。

ロスコの題名のない絵が教えてくれた至高の経験は、私はいつも酒の色を味わっているという発見だった。


今回、展示されたホッパーの作品は三枚。「ニューヨークの室内」「踏切」「クィーンズボロ・ブリッジ」。踏切わきの住宅や、橋の下にも人影はない。静かな、それでいて充足した風景

常設展の最後には、特別展にちなみ、大戦間にアメリカで活躍した「日本人」画家、三人の作品。「日本人」と一口にいっても、彼らの日本との関わりは一様ではない。

国吉康雄(1889-1953)。岡山県出身。17才で渡米、働きながら美術を学ぶ。作品は評判を得るが、外国人であるために賞をもらえないこともあった。米国人女性と結婚、のち離婚。1932年に一時帰国。戦中も米国にとどまった。戦後、移民法改正直後、米国市民権申請の準備中に死去。

野田英夫(1908-1939)。カリフォルニア州、サンタクララで生まれた日系二世。日本国籍を維持するために少年時代を熊本で過ごし、後に米国市民権を維持するために、米国へ帰国。国籍のために、国のあいだを揺れた彷徨人。30才で夭折。共産党活動もしていたという。

清水登之(1887-1945)。栃木県出身。軍人を志すも士官学校の受験に失敗し、画家修業のために渡米。ニューヨークで画家の名声を確立。一時帰国して結婚。パリに二年滞在の後、大恐慌前に帰国。戦中は海軍従軍画家として上海戦線へ。ニューヨークで生まれた長男育夫は台湾沖の海戦で戦死。悲嘆のなか、敗戦の年の12月、疎開先で亡くなった。

三人のなかでは、清水の絵に興味をもった。展示は「チャイルド洋食店」と「ラッパ卒(トレド風景)」。人々の様子がコミカルに描かれ、いわゆるナイーブ・アートの雰囲気がある。


二階の展示室を出て、階下の図書室へ下りる。ロスコや清水の画集を検索して書庫から出してもらう。武蔵野文化会館で行われた清水の展覧会のカタログを見る。帰国後まだ武蔵野が市になっていない頃、現在の吉祥寺北町に移り住んだという。昭和6年といえば、成蹊学園が移転して来た頃。畑の中に校舎が立ち並ぶ航空写真を見たことがある。第二次大戦前のニューヨークとはかけ離れた風景だったに違いない。

画集には「チャイルド洋食店」はないけれど、「シャ・ノワール(黒猫)」「歯科医」「パリ夜街」「水兵のいるカフェ」など、同じ雰囲気のある1920年代後半の作品が並んでいる。

カタログの冒頭、竹山博彦「家族の肖像―清水登之の視覚世界」は、ホッパーと比較しながら、清水の画風を解説する。

 (前略)ニューヨークという都会の中のさまざまなできごとに関心を寄せたアメリカン・シーンの画家達に対して、ホッパーは人間存在そのものに関心を示した。ホッパーの描いたアメリカは、アメリカ人のアメリカであったのである。
 清水登之が描いたのは、そこに住み仕事を持つ生活者としての清水自身の目に映ったおなじ生活者である人々であった。

ホッパーの作品は都会人の孤独を描いている。それは教科書通りの解説というよりまったくその通りの真実に思われる。そして、清水は都会に生きる人々の孤独よりもたくましく、したたかな生活感を描いた。それもその通りに感じられる。

展覧会のポスターを見かけてから、ホッパーを見る予習として、『旅する哲学』旅する哲学 大人のための旅行術(Art of Travel, 2002、Alain de Botton、安引宏訳、集英社2004)を図書館から借りてきて読んだ。ド・ボトンも、ホッパーは都会人の孤独を描いていると強調する。

ホッパーの絵に登場する人物たちは、本質的に家庭の敵対者ではない。ただ、はっきりとはわからないながらもさまざまなやりかたで、家庭のほうが彼らを裏切り、夜のなかへ、あるいは路上へと追いやったらしいのだ。二十四時間営業の道路脇の簡易食堂や、駅の待合室や、モーテルが、しかるべき理由がありながら、普通の世界では家庭を見つけることに失敗した人々が、わが身を守るために逃げ込む聖域(サンクチュアリ)になる。ボードレールなら、名誉ある「詩人」として敬意を表したであろう人びとの聖域に。(第二章 船旅の詩情、ドライヴ・ウェイのポエジー)

ホッパーの描く人々は孤独であるだけではなく、むしろ孤独であるがゆえに「詩人」であるという。では清水の描く人々は何者だろう。生活者。では、生活者には孤独はないのだろうか。この書き方は、少し断定的すぎないか。


図録の表紙にもなっている清水の「水兵のいるカフェ」は、1926年に描かれた作品。登場人物が多い。画面中央の水兵に寄り添う女は視線を合わせず、退屈そうに頬杖をついている。その横には、所在なく立ちすくむ大柄の女。奥では新聞を読む男に、女が熱心に話しかけている。男は少し迷惑そうな顔。

そして、清水一家。妻は背を向けていて表情は見えない。夫は熱心に帳面に素描をしている。息子は、カフェを見まわして、大人たちの表情をうかがっている。そして作品をのぞいている鑑賞者の表情も見つめている。

このなかで、誰が孤独で、誰がそうでないか。誰が「詩人」か、誰が「生活者」か。

そもそも、誰かが「詩人」で、誰かが「生活者」なのか。「水兵のいるカフェ」はそう問いかけているように感じられる。誰もが孤独で、それでいて誰もどこかで人とのつながりを求め、求めるだけでなく、実際に頼りないながらもつながりを持ち、生活を続けている。都会とは、そういう混沌とした場所


初めから最後まで一人きりである人は、さみしく感じることはない。神はきっと孤独を知らない。そして、生活のない人間もいなければ、孤独を知らない人間もきっといない。

そう考えてから、ホッパーの作品を見なおすと、構図はより単純ではあっても、作品に込められた「都会人の孤独」は、それほど単純ではないように見えてくる。

夜の酒場に集まる人々。窓に背を向け、部屋で一人縫いものをする人、列車の席で静かに本を読む人。

彼らは「普通の世界では家庭を見つけることに失敗した人々」とは限らない。普通の家庭を(普通とは何かは別にして)持ちながら、そこからはみでたひとときを、満喫するのでもなく、やり過ごすのでもなく、自分の孤独を、まるで一枚の絵の前に立つように、静かに眺めているのではないだろうか。

海外出張の機内で、一人、イヤホンから音楽を聴いているとき、出張先のホテルのバーで、一人、シングル・モルトのグラスを傾けるとき、港町で、一人、埠頭を歩くとき、仕事を抜け出して、一人美術館の図書室で画集を開くとき、私はけっして一人きりではない。だからこそ、そのとき深い孤独を感じる。

そんなとき、私はホッパーの絵のなかの人物になったような気がする。それは私が「詩人」であることを示してはいない。私のなかにいる、小さな「詩人」に気づかされてはいても、「生活者」も完全に忘れ去られてはいない。

清水登之の絵は、私のなかで、ホッパーに貼りついていたラベルを剥がしてくれた。そして、私の知らない私の世界を一つ、教えてくれた


清水がニューヨークで描いた絵は、“Madeline”ルドウイィッヒ・ベーメルマンスや、“Curious George”のH.A. レイを私に思い出させる。“Madeline”の初版は、1939年、“Curious George”は1947年。描き手は、いずれもアメリカへの移民一世。

大戦前後の絵本作家と清水登之に共通点を感じるのは、清水が子どもの目を通じてアメリカを見ていたからではないだろうか。アメリカで苦労を重ね成功した清水にとって異国で子どもを授かった喜びはひとしおであったに違いない。図録には、ニューヨークとパリで過ごした間の日記が収録されている。忙しい画業の合間に息子の様子が愛情をこめて記されている。

「水兵のいるカフェ」は、子どもの視線が中心にある。移民二世が覗いたアメリカの、都会の、大人の世界。それを父親である清水が温かい眼差しで見つめている。

帰国後の清水の作品は、田園風景を情緒的に描いたものが多い。従軍画家としても筆をふるった。帰国後の行動と画風は、「日本回帰」とも言えるかもしれない。それでは彼が帰ろうとした日本は、どんな日本だったのだろう。東京で生れた娘、中野冨美子は「父の思い出」のなかで、息子の戦死後、毎日墓参りをしていた画家の姿を書きとめている。


いつの間にか、閉館の時間が近づいている。美術館を出て、夕暮れの公園を歩く。サッカーの練習が終わり、子どもたちは自転車に乗って散り散りに帰っていく。さびしいような、気楽な一人の時間が過ぎていく。

清水と入れ替わるようにアメリカに渡った画家、八島太郎は、戦中を米国で過ごし、戦後、残してきた長男を迎えに米軍将校として帰国した。やがて彼は自分が幼い時代を過ごした日本の風景を思い出しながら、絵本を描きはじめる

清水が子どものための絵本を描いていたら。もしも彼がアメリカにとどまっていれば、そういう可能性もあったかもしれない。しかし、その途も苦難に満ちていたことは想像に難くない。

そんなことをとりとめもなく考えながら、公園の隅に止めておいたクルマに乗り込み、家路についた。