A century of painting: From Renoir to Rothko, Guggenheim Hermitage Museum, The Venetian, Las Vegas


一年ぶりでラスベガスに出かけた。仕事の合間に、去年見つけたニューヨーク、サンクト・ペテルブルクにある美術館の別館を覗く。今回の展示は、印象派から抽象表現主義までの所蔵作品。

昨年は、気持ちが昂ぶっていたのか、一枚一枚の絵を緊張しながら見つめた。今年は、ずっと穏やかな気持ち。絵を見ようというより、喧騒を離れて、静かな空間にいられるひと時を楽しむことができた。

一通り歩き回って一番印象に残るのは、ピカソ。展示作品も多い。なぜ印象に残るのか、何を気に入っているのか、自分の言葉ではうまく説明できない。それより疑問に思うのは、一目でピカソとわかること。壁にかかった絵を見た途端、なぜピカソだとわかるのだろう。絵のなかに、ピカソだとわからせる何かがあるからに違いない。それはピカソの個性と言える。


個性とは何か。芸術における個性は、性質の特徴というだけのものではない。表現者が自覚的に選び取ったもの。スタイルとは、そういうもの。

芸術における個性、すなわちスタイルとは何か、考えてみた。

  • その表現分野での基本技能を習熟していること。
  • まだ誰も試みていない形式であること。
  • その新しい形式について率先して研究し、熟知していること。
  • その形式に溺れないこと、形式にこだわるのはむしろ亜流の仕事。
  • つまり、その形式を否定する余地、変化への可能性を残していること。
  • つねに自覚的な選択の結果として、変わったり、同じであること。

展示されているピカソのいくつかの作品を見ながら思いついたのは、こういうこと。しかし、これだけではピカソのスタイルは成り立たない。見ているほうが、それをピカソだとわからないとならない。おそらく、表現する方と同じ能力と知識が表現を見る方にも必要になるだろう。さらに、ピカソという名前も知っていなければならない。


確かに絵を見る確かな力があれば、画家の名前を知らなくても、たくさんの作品群のなかから、同じ人が描いた作品を抜き取ることは可能かもしれない。それでも、画家の名前を知らなければ、作品以外の知識、作品の批評や画家の伝記を調べたり、読んだりすることはできない。

パリのマレ地区にあるピカソ美術館には、行ったことがある。そこで、数え切れないくらいピカソの作品を見た。それ以外にもピカソの作品と言われる作品はたくさん見たことがある。そうした経験を通じて、まだ自分の言葉では説明できなくても、ピカソのスタイルがわかってきたのだと思う。街角で絵やポスターを見かけたときに、ピカソ風ではあってもピカソではないことがわかることもある。

スタイルは、表現する側だけでは成り立たない。スタイルを理解する側にも、スタイルがなければ、スタイルは伝わらない。作品は、表現者と鑑賞者の共同作業によって作品になる。


モネのベニスの風景、ゴッホの雪が残る畑。いつも目が止まる画家は、やはり自分をひきつけるスタイルがある。農夫を描いたスーラの絵は、後に確立した点描ではまだない。それでも、あ、スーラだ、と部屋の端からでも気づいた

最後の展示室にはロスコの「無題」がある。名前がないので「白と赤の上の紫、黒、橙、黄」と仮名がつけられている。温かみのある色合いと配色に思い切った構図。おそらく、これがこの画家のスタイルなのだろう。いつまでも記憶に残る絵であることは確か。しかし、ここを出て、ホテルのロビーに似たような絵が飾ってあったとしたら、果たしてロスコである、ロスコでない、とわかるだろうか。抽象絵画のスタイルは、私にはまだわからない。

芸術における個性については、少しわかってきたような気がする。絵画におけるスタイルについては、文章にできるかもしれない。できるとしても、その文章に私のスタイルは込められるだろうか。文章におけるスタイルとは、何だろう。文体とは、もはや死語ではないのか


碧岡烏兎