都市に住む文法


初めて外国へ行ったときこそ、肌の色や体格の違い、言葉の違いに驚いたけれども、その後は次第に衝撃を受けなくなった。それは慣れたからだけではない。大都市はどこへ行っても大同小異であることに気づいたから。

もう十年以上前、ロンドンのある地下鉄駅での出来事。一人の老女が、当然ながら流暢な英語で私に話しかけてきた。地下鉄の乗り換え方がわからないという。数日前からロンドンに滞在していた私はすでに地下鉄の全体像をつかんでいたから、簡単に答えることができた。私のたどたどしい英語にも関わらず、彼女は不審な顔もせず、礼を言って立ち去った。

この時、言葉の能力とはまったく別に都市に住む文法というものがあることを悟った。作法でなく文法と呼ぶのは、慣れた人はまったく意識することなく振舞うことができる一方、そうでない人は、極度に意識しても間違うことがあるから。

都市に住む文法は、地下鉄の乗り方だけではない。人の流れに逆らわずに歩く、他人と視線を合わせない、身体的には密着しても心理的には近づかない。そうしたことは、都市に住みなれた人には何でもない。肌の色や眼の色が違う人が多い場所では、他人に見られることが少なくない。そんな時でも、都市においては、見られていないように振舞う必要がある。見るだけでなく、見られていない。そうすることで人ごみに溶け込む。それも都市に住む文法の一つ。

ロンドンでの経験があったから、その後ででかけた他の大都市ではたいして驚きはしなかった。大都会では、どこでもほとんど同じ文法に従って、人々は生活しているように見えた。都市で衝撃を受けたのは、ロサンジェルス。広大な都市を車で行きかい、他人と袖触れ合うこともない。身体的な感覚には大きな違いを感じた。その分、心理的な疎外感は、他の都市より強いようにも感じられた。

都会で育ち、今も都会に住む私は、外国の都会へ行っても、もう驚かない。実際、どこへ行っても同じレストランや商店で同じ飲み物、食べ物が食べられるのだから、世界の大都市はますます似た顔に近づいていると言える。

かわりにいつも驚くのは、雄大な自然。グランド・キャニオン、石垣の海、長江。言うまでもなく、その場合のカルチャー・ショックに国境は関係がない。

ひ弱な都会人には、澄み切った空気が有刺鉄線のように痛い。


碧岡烏兎