SPACE ADVANTURE COBRA VOL. 6 タイム・ドライブ、寺沢武一、集英社、1997


SPACE ADVANTURE COBRA VOL. 6 タイム・ドライブ

『コブラ』で最初に読んだ話は、「ラグボールの巻」。めったなことでは買ってもらえない『少年ジャンプ』で読んだので鮮明に覚えている。1977年か1978年のこと。今から思えば新しいスポーツまで生み出してしまう、独創的な世界に魅せられた。

1994年頃、ジャンプコミックスの単行本、全18巻を読み返してからは、いつも手元に置き、大判化、カラー化、CG化してからも、少しずつ買い揃えている。「ラグボールの巻」は、コミックス版、第4巻にある。


B5版シリーズでは、初期の作品をカラーCG化したものと新作品が混ざっている。この第6巻は、初期シリーズにはない作品。コブラの相棒、レディーの過去が明かされる。

「相棒」という呼び方は、コミックス版の最初でコブラ自身が使っている。「相棒」とは、ルパンにとっての次元大介や、バンバンにとってのホージーのように、同性で、半ばライバルのような関係を感じさせる。異性のパートナーにはめったに使われない。そう思っていたところ、日経新聞『私の履歴書』で、俳優の仲代達也が亡くした妻を「相棒」と呼んでいる文章を見つけた。同業であると、配偶者を相棒と感じる人もいるらしい。

「相棒」という呼び名にこだわるのは、コブラとレディーの関係に隠れた秘密がそこにあるような気がするから。


コブラにとって、レディーとは何か。レディーは、そもそも何者か、人間か、ロボットか。最も重要な脇役であるのに、『コブラ』全編を通じて、レディーの存在は謎めいている。過去を明らかにした本書を読んでも、その謎は深まるばかり。

レディーはアーマロイドと呼ばれている。アーマロイドという言葉も、ラグボール同様、おそらくは作者、寺沢武一の造語。装甲したアンドロイドという意味とすれば、戦う海賊コブラの「相棒」らしい。アンドロイドとは、限りなく人間に近いロボットのこと。あくまでもロボットであり、人間の脳や神経を持つサイボーグや機械化人間とは根本的に違う。

レディーは、ロボットではなく、元はサンボーン公国のエメラルダ姫という人間だった。この事実は本書で明かされるけれど、レディーがただのアンドロイドでないことは、前に書かれたコミックス版でも暗示されていた。

『第17巻 光と闇の対決の巻』(集英社、1985)で、レディーは女性の脳を残したサイボーグと戦う。彼女が武器にしたロボットを狂わす信号は、レディーには効かなかった。


レディーは、元は人間。では、生命金属(ライブメタル)のなかにあるのは、エメラルダ姫の何か。『コブラ』の公式サイトにあるレディーの紹介は、微妙な記述になっている。

事故で命を失う事となった時、ライブメタルの体に記憶を移し、コブラの片腕で有り続けることを選んだ。

レディーの中にあるのは、エメラルダ姫の記憶。脳ではない。つまり、エメラルダ姫は死んでいる。ということは、レディーはやはりロボットではないか。

レディーが「生きていない」とすれば、三年ものあいだ、召使ロボットのなかに隠れていたことも、目の前でコブラが生身の女性と次々恋に落ちていくことも、合点がいく。


記憶を元にある人間を生きているように見せることは、技術的には不可能ではない。現にオードリー・ヘップバーンも松田優作も元気な姿をいまも見せている。人間の声や姿をデータベース化し、行動パターンや思考パターンをプログラム化すれば、ある人がいなくなったあとでも、あたかも生き続けているかのように見せることはできる。いまは出来なくても、いつかは出来てしまうに違いない。

それは生きているとは言わない、としても死んでいるとも言い切れない。なぜなら人は人と、声や動きを通じてしか触れ合うことができないから。自分の予測を超えた発言や行動をされたら、それが機械の仕業か、生身の仕草か、判断することは難しいだろう。

人間が記憶の塊で、記憶は情報の束に過ぎないとすれば、人間は、自分にとっては死ぬことは避けられないとしても、他の人間に対しては、いつまでも生きつづけることができる。むしろ、死ぬことができないと言ったほうがいいかもしれない。


記憶は、しかし情報の束ではない。それは生身の人間に保存されているものだから。命を失くしても、人は、いろいろなものを遺す。遺されたものは、その人じしんではない。どれだけ豊富で精緻であってもその人ではない。だから、モノを通じて感じているのは、人間ではない、人間についての情報でしかない。

にもかかわらず、人はモノや情報にすがり、それらを生きている者と置き換えられる存在のように扱う。それは偶像に過ぎない。偶像にひれ伏し、人は偶像の奴隷になる。

とすれば、モノに頼らない生身の記憶、それだけが人間を表わすのではないか。その人にまつわるモノと情報がすべて失われたとき、はじめてその人は死ぬ、死ねる。そのときはじめて、おそらく、その人は新たに生きはじめる。

作品を遺せば、作家として記憶される。モノを遺せば、モノが勝手に生きている人の代わりを果たしてしまう。それを拒むならば、一切遺さないようにするしかない。宗教的覚醒者や、聖人と呼ばれる人たちの多くが、自分では書物一つも残さずに消えていったことで、かえってずっと長く、ずっと多くの人の心に、あたかも生きているかのように残り続けている。その理由は、彼らが生身の記憶の力を信じて、それに賭けたからではないだろうか。


こんなことを考えながら、あらためてレディー誕生の場面を読みかえすと、レディーのライブメタル・ボディーに埋め込まれているものは、エメラルダ姫の記憶ではないような気がしてくる。レディーが生身の神経を持ったサイボーグとすれば、生身の女性と恋に落ちるコブラを見せるのは、かわいそうでならない。同じように、レディーがエメラルダ姫の記憶を缶詰にしたものに過ぎないとすれば、生きていないものを死んでいないように思わされるコブラも気の毒になる。

コブラは情報の奴隷になるような男ではない。記憶を自分の意志で書き換えることを彼はむしろ選ぶだろう。

レディーに埋め込まれているのは、コブラの記憶ではないか。コブラが大切に抱えていたエメラルダ姫の記憶。言葉をかえれば、レディーは、コブラの記憶と想像を具現化したもの。精神力をエネルギーに変換するサイコガンから記憶を注入する場面が思い浮かぶ。


エメラルダ姫は死んだ。そして、レディーが生まれた、コブラの記憶から。その記憶はアーマロイドの姿をまとい、現実化している。

レディーが体現しているものは、エメラルダ姫一人の記憶ではなく、これまでコブラが出会い、失くしたすべての女性かもしれない。彼が愛した女性はことこどく、しかも惨い姿で殺された。彼女たちを悼むコブラの記憶の結晶が、アーマロイドに封入されているのではないか。“Lady”という普遍性を感じさせる呼び名もそれを暗示する。

だからレディーは幻影ではあっても、コブラを惑わすような偶像ではない。偶像とは、例えば、ジョンソンが夢想していた「ボインのメイド・ロボット」のこと。もちろん、失われた愛情の対象という意味では、イコンには違いない。戦いに疲れた海賊を慰め、励まし、英気を吹き込む、一つの姿。


それを何と呼ぶか、私にはわからない。とりあえずイコンという言葉を使う。予備校の世界史講義では、「この宗教画が表わしているのは信仰の対象そのものであって、偶像ではない」と教わった。

記憶は、コミックス版第1巻から『コブラ』の重要な主題。封印された記憶を取り戻し、冴えない貧乏人、ジョンソンから宇宙海賊コブラが復活する場面から物語ははじまる。

トリップムービーが宇宙戦争の夢を通じてコブラの記憶を甦らせたように、『コブラ』の壮大な世界が、記憶をめぐる思索を促し、眠っていた何かを甦らせようとしている。


さくいん:『コブラ』(寺沢武一)