烏兎の箱庭――烏兎の庭 第二部 日誌
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2006年5月


5/9/2006/SUN

BILLY JOEL: The Life & Times of an Angry Young Man, Hank Bordowitz, BILLBOARD BOOKS, 2005

BILLY JOEL MY LIVE, Billy Joel, Columbia, SONY BMG, 2005

ビリー・ジョエル詩集(BILLY JOEL LYRICS 1971-1986)、CBS/SONY SONGS, CBS・SONY出版、1986

4月の北米出張で買ってきた本とCDボックスの感想。

体調不良を引きずっていたわりには、充実した連休だった。

まずは映画。映画館へ行くのは昨夏の『ポケモン』以来。今回は、「見た目は子ども、頭脳は大人」、声は、忍玉乱太郎、そして、その実体は原作者の妻。

『名探偵コナン 探偵達の鎮魂歌(レクイエム)』。昨年の夏、ビデオで一作見てから、これまでの映画9作を見てきた。テレビも以前は、犯人の黒い影を怖がっていたのに、最近は欠かさずに見ている。見るのはアニメばかりで、原作はまったく読んでいない。

これまで見た作品では、『ベーカー街の亡霊』が印象に残る。時空も、生死も超えた世界の不思議な出来事。込み入った脚本は、推理小説家、野沢尚の作品。

10周年記念となる今回の作品は、スタッフが口を揃えるとおり、お祭りのような作品。黒の組織も出てこないし、主人公たちが直接、銃やナイフで狙われる場面もない。これまでの作品に比べると深刻さはずっと少ない。お約束だったコナンと蘭の急接近やすれ違いも、今回はほとんどなかった。対象年齢が下がっているのかもしれない。

この先、『コナン』はどこへ進んでいくのだろう。いま見ている世代と一緒に成長して、どこかで終止符を打つのか。それとも、このまま物語の時間は止まり、見るほうが入学しては卒業する『おじゃる丸』や『ドラえもん』のような世界になるのだろうか。

『名探偵コナン』は、もともと欲張っていて両方の要素をもっている。主人公に恋するヒロインも、紅一点どころか、世代違いで三人も登場する。そこが、この作品の魅力の源泉になっているとも思う。それだけに、今後の展開が気になる。

映画のあと、グローブとローラーブレードを買って、連休の準備は万全になった。


連休の合間、久しぶりに神保町を歩いた。交差点にあった銀行がスーツの専門店に変わっている。いつもきまって覗く店は、変わっていない。

ビルのなかにある児童書専門店では、ずっと探していた『ひとりぼっちの政一』(橋本ときお作、北島新平絵、牧書店、1971)を見つけた。六年生のときに、確か家で読んだはずなのに、いつの間にか失くしていた。主人公は、児童文学の定石とも言える、はみだした少年。舞台は、能登の海岸の町。北陸との出会いは、ずっと昔にあった。

同じ店で、そのうち買うつもりだった『鉢かつぎ』も見つけた。探している『シュヴァル 夢の宮殿をたてた郵便配達夫』はなかった。

同じビルに、少年雑誌の専門店がある。前にここで70年代の『少年ジャンプ』を一冊買ったことがある。ビニルで封してあるので中身は見えない。表紙の絵と、並んだ連載マンガの題名から、読んだ記憶のある号を探す。買ったのは、1978年No.16(4月17日号)と1979年No.32(8月6日号)の二冊。

1978年No.16には、江口寿史の読みきり『名探偵はいつもスランプ』とコンタロウ『1・2のアッホ』。

『1・2のアッホ』は、756号のホームランを打った陽打治(よう・うちはる)のネタ。前に買った号では、ほんとうの世界記録は、ハンク・アーロンの親戚のリーブミー・アローンだったという話だった。江口寿史からは、ドタバタ・コント。コンタロウからは、ダジャレとブラック・ユーモア。いま読んでも、声を立てて笑ってしまう。どうやら私の笑いのツボはこの二人の漫画に育てられたらしい。

1979年No.32は、絶版になっている宮下あきら『私立極道高校』、寺沢武一『コブラ』、それから、池沢さとし『サーキットの狼』の最終回。私が熱心に『狼』を読んでいたのは、「公道グランプリ」から「流石島レース」まで、スーパーカーが公道を駆け回る前半。F1のチェッカー・フラッグで終わる最終回は、ほとんど記憶にない。

この号にゆでたまご『キン肉マン』はあるけど、鳥山明の名前はまだない。コンタロウ『1・2のアッホ』はもう終っている。風吹祐矢も則巻アラレも、記憶のなかでは同じように『ジャンプ』の引き出しに入っていても、実は時期は一致していない。

秋元治『こち亀』は、この頃すでにある。両津の顔がまだ少し角ばっている。彼の読みきり「柴又戒厳令」が掲載された号もずっとさがしている。東京で同時多発クーデターが発生し、挙句の果てに東京が沈没し首都が千葉になるという荒唐無稽な話。「利己主義国」という言葉は、この漫画以外では聞いたことがない。この店にはなかった。

創刊11周年記念の1979年No.32には、巻頭ふろく「ジャンプ漫画ヒーローカタログ」。連載開始終了の時期が添えてあるので、記憶の整理に役立つ。

裏通りをぶらぶら歩く。ふと入った店には、法政大学出版局の叢書ウニベルシタスがぎっしり並んでいる。注意深く背表紙を見ていくと、一年前に図書館で借りて、そのうち買おうと思っていた本がある。『未完の菜園 フランスにおける人間主義の思想』(Tzvetan Todorov、内藤雅文訳、法政大学出版局、2002)こういう偶然を見逃してはいけないことを、ようやく覚えた。

重くなった紙袋を持って大型書店へ。『絵描き』(いせひでこ、理論社、2004)をくれた人に贈る本を探す。釈迦に説法という気もするけれど、在庫が一冊あったので、『舟越保武 石と随想』(球龍堂、2005)を買った。


包んでもらっているあいだ、『丸山眞男 没後10年、民主主義の<神話>を超えて』(河出書房、2006)を手に取る。巻頭の小熊英二のインタビュー記事を立ち読み。

丸山の真骨頂は、彼が本職と思っていた思想史の研究よりも、まして対談座談での発言や、政治的な行動ではなく、戦後すぐに精神的な葛藤のなかで書かれた「文章」にあるという。この指摘には、共感。私の場合、『現代政治の思想と行動』よりも、精読した『日本の思想』に思い入れがある。

ほかに目を引いたのは、丸山眞男と鶴見俊輔の対談。雑誌『思想の科学』を通じて、「大衆の教養」を目指した鶴見と、その空洞化、すなわち「教養の大衆化」を懸念して、学問という教養の型を目指した丸山。戦後思想家、二人の違いがはっきり読みとれて興味深い。

ところが小熊英二に言わせれば、丸山らしさは学問の型からはみ出たところにある。丸山は、学問・ジャーナリズム・知識人という異質な場に絶妙なバランスで立っていたと竹内洋はみる。目指していたものと、辿りついたものは、同じになるとは限らない。でもそれだけで人生の皮肉や不幸とも言い切れない。

レジで岩波書店の広報誌『図書』5月号をもらう。巻頭、小出昌洋が、森銑三にとっての西鶴を、「一冊の書物を三十年間も好きで通せば、ただの好きではない。」という小林秀雄の言葉を引きながら、本居宣長にとっての古事記になぞらえている。

好きな気持ちが深まると、相手の嫌なところも見えてくる。それも通り越すと、好きも嫌いも含んだ親密感が増してくる。そうしてもうそれ抜きでは自分もないように思われてくる。だから、それについて語ることが、自分自身について語ることに、抜き差しならない緊張感で近づいてくる。

小林秀雄にとっての本居宣長も、おそらくはそういうものだったろうし、丸山眞男が、「惚れる」という言葉で表した福沢諭吉も、そう遠くはないだろう。

それから、坂をのぼり、キリスト教書店や楽器店を覗いたりして、秋葉原まで歩いた。収穫もあって、楽しい散歩だった。でも少し買い物し過ぎたか。ちょうど、ネット書店から長谷川潔『白昼に神を視る』(白水社、1991)は在庫が見当たらず、受注を取消させてほしいとメールがあった。この本は、次回の楽しみにとっておくことにする。


連休後半、右目の上がふくらんで痛くなってきた。我慢できなくなり、休日診療所へ。待たされているあいだ、『まんが 世界の歴史』(集英社)の三国志とイスラム史の巻を読んだ。曹操が関羽を逃がした逸話や、サラディンがリチャード一世と交わした騎士道精神が、面白い。

武勇伝に魅かれるのは、戦うことの一切を否定する議論にも、過去と現代の違いに目を向けず、無邪気に戦うことを肯定し、賞賛し、強制しようとまでする議論にも、半分ずつしか納得できないでいたからかもしれない。痛みの原因は、疲労でできた軽い単純疱疹らしい。塗り薬をもらった。


翌日、頭痛も落ち着き天気もいいので、百年前の武勇伝を求めて記念艦みかさへ。目の前の夏島に渡る船でも酔いそうな軟弱者には、船に乗って戦をしようという発想が信じられない。

三船敏郎が主演、沖田浩之が少年兵役で出演した映画のダイジェストを見ていると、当時の海戦の様子がよくわかる。

レーダーがまだないのでシンガポールでの目撃情報を頼りに敵艦隊の位置を予想。大砲の精度は低いので、演習では撃つたびに双眼鏡で成果を確認、伝令が艦内を走り微調整を指示。艦長と士官の食事は、豪華な洋食。甲板では、艦長がスープをすすると同時に、楽隊の演奏がはじまる。技術が未発達なだけ、自然の恐怖が上回っている。そして、過酷さと優雅さが奇妙に船上に同居している。

展示を見ると、東郷平八郎や、小村寿太郎をはじめとして、日露戦争の関係者には、留学経験者が多い。彼らにとって敵は鬼畜ではなかったのではないか。戦争は外交の延長以外のものではなかったのではないか。雌雄が決した後には、敵艦を救助したり、負傷した将軍を見舞ったりしたことが戦争美談の一つになっていることからも、そういうことが推測できる。

戦艦の海戦は、船の運航と砲の技術を備えた専門家の戦いでもある。そのために、民間人を巻き込みやすい陸戦に比べて、英雄譚や武勇伝が生まれやすいのかもしれない。

日本海海戦の圧勝は、海軍や政府、さらには国民全体を成功体験に酔わせた。しばらく前に半藤一利が第二次大戦中の日本国民は集団催眠にかかっていたと日経新聞日曜の「半歩遅れの読書術」に書いていた。集団催眠の遠因は半世紀前の成功体験にあったのではないか。

成功体験は、冷静な分析や不断の訓練を怠らせる。「最後は何とかなるだろう、あのときはうまく行ったのだから」という安易な期待感が、根拠のない自信とともに蔓延する。どれほど窮地に立たされても、どこかから助けの風が吹いて来るという「神風」の発想はその最たるものだろう。

そういう雰囲気のなかで、冷静さを失って全体に溶け込むのでもなく、落胆から自暴自棄になるのでもなく、次に来るものを待つ。どうすれば、そういうことができるか。百年前の話ではない。問題は、妙に身近になってきた。


今日は、ビリー・ジョエルの誕生日。星座占いも血液型の性格判断も信じない。まして同じ日に生れたからといって、似た性格とはまったく思わないけれども、同じ日に生れたことを知ると親近感は確かに増す。親近感が増すと、どこか似ているところがあるような気がしてくる。

同じことだけど少し違う。根拠は、誕生日ではなく、親近感にある。ビリー・ジョエルが歌を作ることをやめてしまった今も、彼の歌声を聴かない日はない。


写真は、戦艦三笠に翻り、「各員一層奮励努力せよ」と鼓舞するZ旗。


5/27/2006/SAT

世界一美しい広場へ帰る――欧州旅行回想

「烏兎の庭 第二部」、最後の文章。題名は、小林豊の絵本から。

ヨーロッパへの旅がそうだったように、この文章は15年以上も前に書いた文章、「ヨーロッパ旅行覚書」に帰る。それから、これまでに書いた文章のあちこちにも帰れるようにできるだけ多く補助線を引いておいた。

今回の旅行では、買い物がほとんどできなかった。日曜月曜は閉じている店が多い。最後に空港で、ブリュッセル生れのシャンソン歌手、Jacque Brelのベスト盤、“Ballades Et Mots D'Amour”(2003)を買った。ジャック・ブレルの名前は、ガブリエル・バンサンの絵本『老夫婦』(今江祥智訳、ブックローン出版、1996)で知った。

また一人、グランプラスに立った人との出会い。

グラン・プラスの記憶を焼きつけておくために写真集も買った。“Discovering Brussels”(photos Vincent Merckx, text by Georges-Henri Dumont, Vincent Merckx Edition, 2004)。解説は、蘭仏英独の四言語表記。文字を眺めていても、街角の様子を思い出す。


帰ることは、出発すること。と書いておきながら、どこへ出発するのかはわからない。

やめるとは言わない。いつかまた、はじめるに決まっている。でも、いつ、どんな風に書きはじめられるのか、今はわからない。

このところ、Billy Joelの最初のソロ・アルバム、“Cold Spring Harbor”(1971, SONY, 1998)を繰り返して聴いている。いまの気分に似合う曲が多い。最後にある始まりの歌、“Got To Begin Again”の言葉は、あとがきのかわりになる。

And I'll know
That I've got to begin again
Though I don't know how to start
Yes, I've got to begin again, and it's hard

Billy Joelについて書いた文章は、続けて手を入れている。追記した「全時的今」という言葉は、大貫隆『イエスという経験』(岩波書店、2003)から。

この言葉は、『聖書の日本語 翻訳の歴史』のあとに読んだ『聖書を読む 新訳篇』(岩波書店、2005)にある「終止符と全時的『今』」―ヨハネ福音書第一章3-4節の翻訳によせて―」で知った。専門的で難解だった文章のなかで、この言葉はなぜか印象深く残った。

書評は残していないものの、大貫の文章は読んだ記録がある。『グノーシス 異端と近代』と『グノーシス 陰の精神史』(どちらも大貫隆・島薗進・高橋義人・村上陽一郎編、岩波書店、2001)。これも、難しかった。素朴な感想を言えば、敵味方の二元論に陥りやすい異端と正統、異教と正教という見方では、宗教や信仰を理解することはできない。

宗教的な闘争は、個人の思想的な葛藤に基づいてる。表面的な権力抗争だけでは、思想史の底流は見えない。一人一人の真摯な戦いが、右往左往しながら思想史を切り拓いてきた。弁証法的に、と言ってもいいだろう。

そもそも思想とは一人のもの。私はそう考えている。集団に思考の傾向というもほはあるかもしれないにしても、集団が思想をもつということはありえない。

時流に遅れてようやく読んだ『ダ・ヴィンチ・コード』(2003、Dan Brown、越前敏弥訳、角川文庫、2006)の結末も、私はそう読んだ。

「全時的今」という概念は、まだきちんと把握できていない。書評も残していないので、忘れないように埋め込んでおく。


歩き疲れて、庭の隅の草むらに腰を下ろしていた。そろそろ起き上がらなければならない、何から手をつければいいのか、あてはないけれど。

しばらく休んで、サイト全体のデザインや、構成も考えなおすつもり。第三部のことも、題名や文章のいくつかはすでに考えている。旅行と同じで、計画することが楽しい。

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