紅一点論、斎藤美奈子、ビレッジセンター出版局、1998


アニメだからといって放っておくことはできない、という著者の基本姿勢には強く同意する。私も似たような手法を使ったことがあるから。

学生時代、政治思想史の演習で『となりのトトロ』を批判した。映画の最後で「このへんないきものはまだ日本のどこかにいるのです、きっと」といった字幕がでる。映画で描かれる風景は、明らかに沖縄や北海道ではない。一昔前の東日本(あとで埼玉と東京の境とわかった)に典型的な風景。これをもって「日本のどこか」というのは、多面的な文化を隠蔽し、単一的な日本像を押し付けるだけだ、というのが私の主張だった。

当時、かなり憤慨した発表文を書いた記憶があるが周囲の反応は冷ややかだった。たかがアニメに目くじらを立てるな、ここは思想史を研究する場であってオタクのサロンではないのだよ、という視線を感じた。斎藤の本をいま読んでみると、こういうやり方も認められるようになったのかという感慨がある。もっとも、本場の社会学からはほとんど無視されていることも想像はつく。斎藤のほうでもアカデミズムからの反響など、眼中にないだろう。

さて、本書で暴かれている、アニメ、子ども番組、子ども向け伝記物語などの紅一点イデオロギーに異論はない。フェミニズムの論者のなかにはまるで世の中の悪はすべて女性差別に根源がある、さらには女性差別だけが問題だ、というような強論をぶつ人がいるけれども、斎藤の議論はそうした原理主義ではないように感じられる点も好ましい。

紅一点論の女性対男性を題材にしているが、こうした一点豪華主義のような構図はほかの差別的状況にもみられる。例えば「丸太小屋からホワイト・ハウスへ」に代表されるアメリカン・ドリームは、大部分では貧富の差が激しい合衆国社会の現実を隠蔽することに一役買っている。

紅一点以外にも、アニメ、ドラマ、マンガなどの人物設定には西一点と呼べるような傾向もある。紅一点が主人公のグループに一人だけ女性を混ぜるものとすれば、西一点とはその中に一人だけ関西弁でしゃべる人物が配されていること。関西=大阪=お笑い、そして好きな食べ物はたこやき、という紅一点よりあからさまなステレオタイプがあちこちで見られる。このような見方にも、固定した女性観に対するフェミニズムのように、批判が起こってもおかしくない

本書は紅一点という偏見を生み出す文化的構造、その内部に住まう人々にしみついた精神構造を明らかにしていく。こうした手法は、イデオロギー暴露といってもいいだろう。そこから私なりに問題意識を展開すると、偏見のないこと、イデオロギー・フリーを教えることはできるのだろうか、という設問になる。

本書では、紅一点の構造から逸脱した作品として、『機動戦艦ナデシコ』と『もののけ姫』が紹介されている。これらは紅一点という構造からは免れているが、それを克服しているかというとそうでもない。なぜなら『ナデシコ』はナンセンス、すなわち筋書きも構造もないアナーキーであり、『もののけ姫』は緑一点、すなわち紅一点構造をただ裏返した逆さ絵でしかないから。

子どもの心は白紙とよく言われる。その意味では、白い紙の上に経験という色付けをしていくのが人生ということになる。何を経験しても何かの色はつく。色がつくことは悪いことではない。むしろその人だけのもつ色合いを個性と言うこともできる。イデオロギー・フリーとは、色のない経験のこと。白い絵の具を白い紙の上に塗っても、彩りある絵にはならないのではないだろうか。

人は誰も、自分の肉体的な性、精神的な性から逃れることはできない。紅一点論は、男性は男性として、女性は女性として、解体しなければならない。性別のないような人間を生み出すことは、紅一点論の克服ではないはず。

色のない体験もなければ、性別のない人間もいない。本書で明らかにされているように、子どもたちは学校や法律ではなく、アニメや伝記というごく日常的な水準で紅一点論に慣れさせられている。その世界は一朝一夕で変更されるものでもなければ、一人だけ脱出できるものでもない。だから、紅一点論がある世界でしばらくは生きながら、それを変えていくことを考える必要がある。

教育とは影絵を見せるようなもの、という岸田秀の文章を読んだことがある。戦争を教えることが平和を教えることになり、平和を教えることが戦争を教えることにもなる。一つの色を塗ることは、補色を塗りつけることでもある。軍人が突然、先鋭的な平和主義者になったり、世界市民主義者が突然、強硬なナショナリストになったりするのは、二つの色が心に強く焼き付けられているからだろう。

だから教育にできることは、色が乾ききってしまう前に、二つの色が塗られていることに気づかせることではないか。放っておくと、まるではじめからそういう色であったかのように染み付いてしまうから。

子どもの心は塗られるばかりではない。やがて子どもは自分で自分の心を彩色することを覚える。その時、一つの色を塗ることが同時に補色を塗ることと知っている子どもだけが、これまでの経験がはらむ偏見を白い絵の具で塗り始めることができる。白く薄っすらと塗られたキャンバスには、個性という素描がパステルのように淡く、それでも決して消えない程度に輝くだろう。

紅一点を排したように見える作品は、筋書きや構造などの物語性が欠如しているか、紅一点を逆転した構造をもつ。ということは、物語性のある作品は、どうしても紅一点(あるいは緑一点)に拘束されてしまうということなのだろうか。

この問い、すなわち物語性の是非を問うことは簡単ではない。さしあたっては、二つの問題が立てられる。物語性、すなわち、何かを成し遂げるという筋立ては、紅一点論(あるいは緑一点論)から逃れられないか。 反対に、紅一点論を排した作品に、物語性をもたせることは可能か。言うまでもなく、ここまで来ると物語性とはアニメや漫画の筋書きだけを意味するのではない。進歩という物語、革命という物語、審判という物語。物語性の本質は、つねに何らかのイデオロギーと、深い関わりをもっている。

これまで、アニメのことばかり書いてきた。著者は伝記に潜む紅一点のイデオロギー性も暴露している。紅一点だけでなく、伝記も物語である以上、何らかのイデオロギーからは免れないだろう。伝記とは、ただの人が偉人になる「物語」だから。伝記からイデオロギーを排除しようとすれば、詳細に事実だけを追跡したノンフィクションになる。

ところがリアリズムに溢れた伝記は、必ずしも面白くない。先日図書館の児童書棚でふと野口英世の伝記を一冊とりあげた。何気なく開いたページから、「こうなったら頼るのは血脇先生しかありません」という一文が飛び込んできて驚いた。野口英世は尋常でない努力家であった一方、現在ではケタ外れの放蕩、散財でも知られる。血脇先生は野口のいわばパトロンで、彼の所業にあきれながらも生涯助けた恩人。私の記憶では、昔の伝記には右のような表現はなかった。

野口が私生活においてめちゃくちゃな人であったことは、彼の偉業を貶めるものではない。ただし、そう理解できるのは大人だけ。裏表すべてが書きこまれてしまった伝記を読めば子どもはきっと、小遣いを一日で使い切ってしまうような人を見習えというのか、と反発したくなるに違いない。

このようにして考えると、物語性のないナンセンスも、事実の裏表を描くリアリズムも、物語という構造を理解できるようになってはじめて楽しんだり、学んだりできる手法ではないだろうか。別な言い方をすれば、物語を知っている人だけが、小説という虚構やノン・フィクションという事実の記述を楽しむことができるということ。だとすれば、子どもは物語をまず読まなくてはならないと言えるのではないだろうか。

ここでいう物語とは、イデオロギーにとらわれた大きな物語ではなく、物語を理解する練習となるような小さな物語。紅一点論に抗する小さな物語。

斎藤によれば、アニメやヒーローものの番組では、新しい試みがあるらしい。そうした試みは、物語という閉じた形式を備えながらも、イデオロギーという硬直した内部構造をもたず、さまざまな読みを可能にする、開かれた作品とも言える。

それなら、新しいものを探すまでもなく図書館にありそう。絵本の棚へ行ってみよう。


碧岡烏兎