硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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2013年6月


6/1/2013/SAT

フランクル『夜と霧』への旅、河原理子、平凡社、2012

共に生き、共に苦しむ――私の「夜と霧」、霜山徳爾、河出書房新社、2005

しばらく浮かない気分が続いていた。今年は、珍しく冬を好調に過ごすことができた。ところが、いつもなら気分がよくなる春先から沈みがちになった。

本を読むことも文章を書くことも、Twitterで軽くて短い言葉を読んだり書いたりすることも億劫になり、仕舞には苦痛になってきた。しばらくのあいだ、Twitterはデバイスからアプリを消して目にしないようにしていた

そのきっかけは、たぶん『フランクル「夜と霧」への旅』だった。ルポルタージュ風の文章で難しいこともなく、すぐ読み終えた。ところが、そのまま簡単にまとめるつもりだった読後感がまとまらない。

本文の冒頭に書いた通り、「いつ」フランクルを知ったのか、「なぜ」フランクルなのか、そんなことを記憶を遡り、つらつら考えていると余計なことばかり思い出し、言葉にならない映像や声で頭のなかが溢れそうになってきた。


一昨日、5月最後の木曜。久しぶりに大阪に泊まった。2002年から2003年のあいだちょうど『庭』を書きはじめた頃ほとんど毎週泊まっていたホテルを予約した。

新大阪で新幹線から地下鉄に乗り換える。中学生のあいだ、単身赴任している父を訪ねて、休みのたびにこうして新大阪で御堂筋線に乗り換えた。乗客の声を聞いて大阪に来たことを実感する。何度も一人で通った道。ふと、Twitterを再開してもいいかな、と思った。

宿に着き、年始からずっと平日には口にしていなかったビールを呑みながら、ぼんやりとしていたら、少し肩の力が抜けてきた。あの頃は「心の風邪」という言葉も知らずに暢気に過ごしていた。


感想文の余白に書くつもりが書き過ぎている。「日常」のなかで少しずつ書くようにしたい。


6/7/2013/FRI

ちょっとうれしい気持ちになる出来事があった。

息子がラジオの基礎英語を聴きながら言った。「“How's it going?"が「調子はどう?」なら、さかいゆうは同じこと英語と日本語で言ってるんだ」。いつの間にか、私が繰り返し聞いている曲を覚えてしまったらしい。

しばらく前も食事中、聴こえてくる音楽に「これ、Earl Klughじゃない?」。

親子が話題を共有できることはありがたい。そう思う一方、これも父子消費という風潮の結果に過ぎないと冷めた眼で見ることもできる。


6/8/2013/SAT

中年期うつと森田療法、北西憲二、講談社、2006

読んだのは先月のこと。『庭』を休園にしていたあいだにブクログに書いた、短い感想文を書き写しておく。引用文はあちらに残してある。


治さなければならない病ととらえるのではなく、今そのようにある自分を受け入れるという視点に教えられることは少なくない。

以下、著者の勧める神経症の克服方法のまとめ。原文は丸数字。

<ぐるぐる回り>の脱出法
1. 抑うつ(おちこみ)は来るもの、あるものと覚悟する。むしろ大いに抑うつに落ち込むつもりで待ってみること、そして次の練習をしてみること。
2. 抑うつになったら、それをそのままほ放っておくこと、待つこと
3. そのときに気分の経過を観察すること。ここで観察する能力を高めることは、この治療で目標とする抑うつを抱え込む力を育てる上でも重要です。
4. 気分が山形の経過をとることを実感してもらいます。
5. そして目の前のできることに手を出していってもらいます。(p107)

森田療法とは、結局のところ「医学」なのだろうか。患者に進むべき道を示しながら、自ら進んでいくことを促す意味では「医術」や「医療」ではあっても、「医学」というよりは今の言葉で言うカウンセリングの一手法ではないか

あるいは、生き方の術を教えるという意味で、日本文化に根ざしたある種の「道」ではないか。

おそらく、そのいずれでもあるのだろう。だから、現代において、これだけに頼るのではなく、一方的に批判するのでもなく、薬や精神療法、認知療法ほか、現代にあって享受できるさまざまな方法と併用していくことがよいのだろう。

もちろん、その併用の配分には患者が信頼できる医師と納得のいく対話をしたうえで進めていかなければ、何の効果もないどころか、迷える患者をさらに深い苦悩に陥れてしまうに違いない。


6/15/2013/SAT

永山則夫 封印された鑑定記録、堀川恵子、岩波書店、2013

『無知の涙』は、高校一年生のときに読んだ。薄暗く埃っぽい図書館の記憶と重なる。内容はあまり覚えていない。抑えきれない怒りや憎しみ、悲しみに共感するような思いを抱いたことは覚えている。

『無知の涙』は、私にとって読書の師というべき人に勧められて読み出した。『橋のない川』『伽倻子のために』『冬の旅』『草の花』『雲の墓標』。どれも重い。こういう本を思春期の若者に立て続けに勧めるのもどうかと思う。それを素直に受け止め、次々読んでいたのも、何かしら共感するところがあったのか。それは、やり場のない悲しみと怒り、だったかもしれない。

本書は一人の青年の生活史であり精神史でもある。また、それを明らかにした若い精神科医の熱意のこもった精神鑑定の要旨でもある。

そもそも、永山則夫は不安定なところはあっても、粗暴な人間ではなかった。もし、米軍住宅で鍵のかかってない引出しの中に拳銃を見つけていなかったら、犯罪を犯していたとしても、ずっと軽いものだったかもしれない。

そうとらえると、永山則夫の犯した連続射殺事件は「銃社会・アメリカ」とも関係がある。


長い対話が「鑑定」ではなく「治療」になったという医師の回想は興味深い。

長い時間をかけて自分の半生を語り、それをゆっくり噛み締めるように聞いてもらうことで、取り返しのつかない罪を犯した青年は少しずつ変わっていった。投げやりになっていた獄中人生は、本を書き、印税を被害者の遺族へ送る贖罪の人生になった。

人は変わることができる。ただし、変わるためには変わることを促す人との「出会い」がなければならない。もし永山が石川医師のように熱意のある教師と中学生や高校生のときに出会っていたら、彼の人生はまったく違うものになっていたかもしれない。

心を育てる教師に出会っていたとしても、まだ永山には犯罪者になってしまう可能性がある。その理由は貧困と家族の問題。貧しいことと、心のよりどころにならない家族が、人の成長を阻み、荒んだ大人を生み出す。この問題は、現代にあってさらに深刻になっている


人と出会うことで人は変わることができる。しかし、導いてくれる人に出会わなかったとしても、それを自分が未熟であることの言い訳にはできない。

この言葉は私自身に向けて言っている、回心した犯罪者に対してではない。


6/17/2013/MON

珍しく月曜から帰宅が遅い。残業ではなく、ただの連絡待ち。会社のメールがダウンしたので、FAXが来るのを待っている。

定時で終わっても徒労感だけを抱えて帰るときもある。遅くなっても、勝負に負けても労いの言葉一つで安らいだ気持ちで帰宅できる。

仕事って何なんだろう?


6/20/2013/FRI

Still Working、山中千尋、Universal、2012

6月なのに真夏日という異常な天候の後、梅雨らしくなってきた。朝、食卓で聴いているFMからも雨の音楽が流れている。

90分の通勤のあいだ、1,000曲以上を詰め込んだミュージックプレイヤーから「雨」と“Rain”を検索してランダムに流してみた

帰路、家の近くまで来て、心地よいピアノが聴こえてきた。滴の落ちるような軽快な音。山中千尋の“Rain, Rain, Rain”だった。


山中千尋の音楽を一言で言えば、「カッコいい」。この言葉は息子が幼児の頃、多用していた。彼はヒーローの人形やスポーツカーのミニカーを握りしめ、動物のかわいいぬいぐるみとは区別して「カッコいいおもちゃ」と呼んでいた。悪漢に立ち向かう強さ、疾走するスピードの清々しさ。

ふだん、気に入ったアーティストのアルバムを図書館であるだけ借りてきて、あとで題名も見ずに聴き流している。この曲が流れ出したとき、思わず演奏者と曲名を確かめるために画面を開いた。

山中の作品に惹かれたのはピアノのほかに、ハモンドオルガン、フェンダー・ローズなど音色の違う鍵盤楽器の音も楽しめるからということもある。新しさのなかに懐かしい感じ。


「カッコいい」とは、単純に男らしいというものではない。如月ハニーも十分カッコいい。主題歌を歌っている前川陽子もカッコいい。すこしさみしいけれど「夜霧のハニー」もカッコいい。

YouTubeで、Car Graficと山中千尋と稲垣潤一というつながりを見つけた。「カッコいい」つながりと言ってもいい。葉山マリーナのジャズ・イベントでは稲垣の歌う「夏のクラクション」の後ろで山中がピアノを弾いている。

「夏のクラクション」は林哲司作曲。これも「カッコいい」。


6/21/2013/FRI

リストラされて転がり込んだ今の会社。4年の間に4回社長が代わっている。ビジネス本はリーダーシップを鍛えることばかり説くけれど、多くの人にとってより可能性が多く、そのためのノウハウも必要なのは、性格の異なるさまざまな上司と上手に付き合うことだろう。

数年前、大阪大学の卒業式で鷲田清一はなる人が少ないリーダーの資質よりも圧倒的になる人が多い下から支える人の「フォロワーシップ」の大切さを説いていた


6/22/2013/SAT

喪の悲しみ (Le deuil, 2010)、Marie-Frederique et Michel Hanus、西尾彰泰訳、白水社、2011

概説を思わせる言葉遣いの書名とは異なり、具体的な事例を多くとりあげる。内容は現代ヨーロッパにおける、機械的で没社会的な死の意味付けにはじまり、後半は長く子どもにとっての「喪」「悲嘆の作業」、いわゆるグリーフ・ワークについて深く掘り下げている。

5歳までの死別体験には慎重な対応をとらないと成長後に精神疾患を発症する危険が高いという。医学的な根拠はあるわけではないが、思春期に肉親や親しい友人を失うことも、成長期から成年になったあとまで、長年にわたるダメージを当事者の精神に与えると思う。

同じ主題を扱うほかの本も書いている、子どもにとって有効な「喪の作業」が列挙されている。複数の本で指摘されているということは、臨床で実証されて、多くの専門家が認めているということなのだろう。


死の事実を受け止めるために遺体を見ること、故人の記憶、また共に過ごした時間の記憶をとどめるために形見を大切にすること、故人を偲ぶ行事や思い出を語り合うひととき、そうしたものが健康的な「喪」を促すと説かれている。

そうしたものが何らかの理由で封じられ、喪の作業が先送りされると、これもまた後々、円満な悲嘆の結末、すなわち新しい人生の開始を妨げる。これは私の感想だけではなく、本書でも指摘されている。

問題の核心はここにある。ほかの本と同様、その先について参考になる助言は見つけられなかった。


6/23/2013/SUN

死の体験―臨死現象の探究、カール・ベッカー、法蔵館、1992

興味深い研究ではあるけれど、「そういうこともあるのかな」という領域を出ない。臨死体験というものはあるかもしれない。でも、それは死そのものではない。結局のところ、戻ってきた人の体験談はあくまでも死の手前であり、完全に死んだ人の話を聴くことはできないから。

一つ、気になったこと。自死した人は地獄のような場所をさまよう体験をするという。そこから著者はそうした「教訓」が自死を防止すると説く。

これは話が逆ではないか。地獄にいるような苦しみを現世で感じているから自死してしまうのであり、自死の結果、地獄に落ちるというのであれば、「自死は自分を殺す大罪」という20世紀以前の見方と変わらない。


6/29/2013/SAT

今週は低調だった。

火曜日、新しい上司と初めて客先訪問で緊張した。とりあえず失態はなかったものの、少しでも気を緩ませたくて帰宅してからビールとワインを呑んだ。

案の定、水曜日は朝起きられず、病欠にした。それでも目が覚めてからは家で仕事をした

金曜日は緊張が解け、帰宅してから独りで呑んだ。テレビを遅くまで見てから就寝。次に起きたのは土曜日の夕方。これではいけない。

今年は、出足は好調だったのに、梅雨に入ってからすっかり例年通りの気分になってしまった。

何とかしたいともがくより、こんな時もあると受け流してみたい。それができれば一段進んだ、と言えるだろう。


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uto_midoriXyahoo.co.jp