土を掘る 烏兎の庭 第三部
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2007年1月


1/6/2007/SAT

2004年2月14日の日誌、ラーメン屋から随想「き印の夏休み」の餃子の項へ、そば屋から2003年12月26日の日誌へ小径をつくっておく。

年末、例年同じ場所でそばを食べてから、むかし住んでいた家に帰る。この店に通うようになって、10年以上になる。通いはじめたころは、よく昼過ぎにクルマで立ち寄った。その頃は、クルマに乗る時間が長く、文化放送を聴いていた。志の輔、梶原しげる、それと吉田照美。悪者の味方、遠藤誠の声もよく聴いた。

美味しいと思う店は少なくない。でも、頻繁に通える店は多くないし、近くにあっても長く続く店もそう多くない。いつもの店が、いつものように開いているとそれだけでうれしい。繁盛していれば、なおうれしい。

そんなことを考えたせいだろうか、毎年、正月を過ごす部屋で、十代の頃は、毎晩眺めていた天井を見上げて、もうここへ帰らない時、帰れない日が来るかもしれないと思った。そんな風に考えたのは初めてのことで、自分でも驚いた。

何かが、はっきりとは見えないながら、変わりはじめている。私はそれを遅らせることはできても、止めることはできない。

この場所に帰ることができないときが来ると思ったとき、すでに、この場所は終わりを迎えているような気がした。旅先では正反対の経験もある。ほんの数日でも同じ宿に帰るとき、まるでその旅がいつまでも続くように思う瞬間がある。

終わりがあると思ったとき、すでに終わりは始まっている。そう考えるのは、不吉な予感だろうか、それとも達観の境地だろうか

よくわからない。はっきりわかっていることは、重要なことは、命題そのものではなく、それを包み込んでいる情感、あるいは経験の内実にあるということ。

終わりを待つ、とはどういうことだろうか。これから考えるべきことがらが、すこし見えてきた気がする。

最初の一歩として、先月16日の文章に三段落、追記した。

写真は、初詣で見た、阿字ヶ池にかかる太鼓橋。


さくいん:吉田照美


1/13/2007/SAT

『描かれた家族』(FAMILIES THROUGH THE EYES OF ARTSITS, 1989, Wendy and Jack Richardson、若桑みどり日本語版監修、森泉文美訳、小峰書店、2005)ほか、小峰書店の表記を小峰出版から訂正。

今年、はじめて図書館へ行った。字だけの本はまだ探さず、児童書の棚を歩く。前に読んで面白かった子ども向けの画集シリーズの新刊を見つけた。

借りてきた本の記録をつけるとき、出版社の名前を誤記していたことに気づいた。

小峰書店には、思い出深い絵本がある。『きこえる きこえる』(THE NOISY BOOK, 1939, written by Margaret Wise Brown, illustrated by Leonard Weisgard、吉上恭太訳、小峰書店、1998)

記録が残っていないから、読んだのは2002年6月以前。その少し前、近くの図書館に通いはじめたころに読んだのだろう。出版社の名前を聞くと、確かな理由もなく思い出す一冊、どの出版社にも、そういう本がある。たいていは、装丁が強く印象に残っている。この絵本も装丁で賞を受けている。

原色を使った、デザイン性の高い絵、擬音を使った詩的で、軽やかな言葉遣い、可愛らしい結末。一言でいえば、ポップで「オシャレ」な絵本。流行の「大人の絵本」かと思い奥付を見ると、1939年の作品とあり、驚いた。『ひとまねこざる』『ちいさいおうち』よりも古い。

この絵本を借りたときに、出版社の名前も一緒に覚えた。それなのに、別の絵本ではどういうわけかずっと表記を間違えていた。

思い出して『きこえる きこえる』を借りてきた。あらためて読書記録にも記入した。

写真は、冬の枝。


1/20/2007/SAT

書評「文学の思考」の終わりに一段落追加。最後の一文がはみ出るようになった。

   感想文を書くことばかりではない。私が「誰か」に読み聞かせてもらった本を、私がまた「誰か」、ほかの人に読み聞かせれば、「誰か」は、ほかの「誰か」、次の「誰か」に読み伝えていくかもしれない。

「誰か」にカッコをつけたのは、それは名前も知らないどこかの誰かではない、名前を知っている「誰かさん」のことだから。

正月休み、ある光景を見て、伝統と古典の継承について書いた文章に追記することを思いついた。

少年が声を出して本を読んでいる。学校の宿題か。何を読んでもいいと言われたので家にある本を読んでいる。読んでいるのは、『日本むかし話』(大川悦生、偕成社、1967)。この本を買ったとき、まだ少年の父親は生れていない。はがれそうになっていた背表紙は、テープで補強してある。

音読を聞いているのは、40年前にこの本を買ったその人。何度も何度も、自分で読み聞かせているから、話はもちろん、文章もすべて、まだ、覚えている。手仕事を休めず、聴いている。本を見てないのに直されるから、読むほうがびっくりしている。

あとで開いてみると、あとがきに編者の期待が書かれている。

   では、みなさん、一回だけでなく、なん回もくりかえして、よんでください。そして、よくおぼえたら、小さい弟さんや妹さんたちにむかし話をしてくださると、たいへんうれしく思います。

伝統は、厳しい修練を通して受け継がれる面と、生活の一部分としてごく自然に受け継がれる面がある。ごく自然といっても、受け継ぐためにはほんの少し意識的になって、それが新しいものに置き換えられないようにしておかなければならない。

夜、ふとんのなかで本を読み聞かせる。それは大げさでなく、歴史に関わる。

写真は、冬枯れの山道。国境の有刺鉄線が見える。


1/27/2007/SAT

随想『体罰、より正確に教員の暴力について』を推敲。暴力教員の現在の心境を推測した部分、「お前はそれでも、数は少なかったんじゃないか?」を次の文に差し替えた。

   感謝こそされても、お前にそんな風に言われるとは、先生は悲しいよ。

明らかに法令違反を犯し、相手に危害を加えておきながら平然としていられるのは、そうするよりない状況があるから、言わば必要悪と彼らがみなしているからではないかと思っていた。最近になって、どうもそうではないことがわかってきた。

彼らに法律に違反しているという意識はない。あるいは、法律に違反していると薄々はわかっていても、自分はそれよりもさらにいいことをしているから、それが許されるはずと思っている。だから、相手に対しては、糾弾どころか感謝されて当然と思っている。

いわゆるパワハラについての報道や記事を読んでも、している当人は相手によかれと思っていて、危害を加えている意識はあまりないらしい。

こういう相手は、自分がしていることが法的にも倫理的にも間違っていることをわからせるだけでも難しいから、謝罪を引き出すのはさらに難しい。核心をつくと、これだけしてやっている恩を仇で返されたと思うので、感情的に怒りを倍増させる、いわゆる逆ギレを起こす。

どうすれば、こういう相手にわかってもらえるだろうか。法律的に勝つことは難しいことではない。その場合、相手には遺恨を残し、だから、こちらには徒労感しか残らない。

立ち去るしかない、のかもしれない。関わらないでいられるならば、関わらないでいるのが一番いい。では、相手が関わらなければならない立場にあるときはどうするか。

その答えはすぐには出ない。ひとまず観察と分析の結果を残しておく。

写真は、山道に降り積もった枯葉。


さくいん:体罰


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