「終わりの始まり」という副題をつけて文章を書きはじめる。 父の葬儀が終わったとき、四十九日を過ぎたら『庭』を再開しようと思っていた。
ところが、書こうとしても書けない。文章という構成物が作れない。
痛みとともに飲み込んだつもりの悲しみが言葉のカケラになって胃袋で暴れる。酒を吞み過ぎたときのように、空腹のままバスや電車に揺られて乗り物酔いになったときのように、頭が痛く吐き気が止まない。
「終わりの始まり」という言葉だけが葉の落ちた冬木の枝にぶら下がっている。
「終わりの始まり」と言うと、繁栄が没落しはじめることを意味することが多い。
2015年1月に「 最後の手紙」と題して書きはじめた『烏兎の庭 第五部』は、私の生命の「終わりの始まり」になるはずだった。
思いもかけず私は生き延びている。代わりに父が思いもよらないときに亡くなった。
そのとき私は、 悲しみとともにに父が遺した「最期の手紙」を手にして驚きと恐ろしさを感じて、反射的に言葉を失い書くことをやめてしまった。
日本語の助詞「の」は曖昧な文を作り出す。
「の」を英語の"of"に読み換えて"Beginning of End"と読むと、違う意味にもとれる。「終わり-からの-始まり」や「終わりの-中にある-始まり」と解釈することもできる。
『終りの中に、始まりが』という書名の本を読んだことがある。原題は"Im Ende-der Anfang"。著者はユルゲン・モルトマン。父の死後、この本の書名をふと思い出した。
「終わりの始まり」という言葉はきわめて多義的、というよりも曖昧。いかようにも解釈できる。
終わりが始まる
終わりから始まる
終りの中に始まりがある
終りとともに始まりがある
「すべてのカードがそろった時 それは終わりではなく始まり 終わりへの始まり」
「たとえ終わりがあってもいい / そこに始まりが宿っているならば」
終りのあとに始まりが来る
終わりがあって始まりがある
終わりがあるからこそ始まりがある
始まりがあれば必ず終わりがある
始まったものは必ず終わる。永遠はどこにもない、少なくとも人間の世界には。産まれた者には必ず死が訪れる。ということは、すべての始まりは、はじまった時点ですでに終わりの始まりにある。
いつまでも続くと思っていたことが突然、何の前触れもなく終わることがある。
終わりのあとに始まりが来ることはある。季節はそうしてめぐりめぐる。
けれども、始まりは一度だけ。同じ始まりは二度とない。そして、終わりに終わりはない。一度終わったものは二度と始まらない。
始まるものは別の物。しかも始まりは新鮮で晴々としているとも限らない。泥沼から這い上がるような始まりもある。
終わりが到来することは言わば物事の必然。悪いことばかりではない。幼児期が終われば少年時代が来る。やがて少年時代と入れ替わり思春期が始まり、いつか大人になる。
大人の次には何が始まるのか。「少年のまま」と言えば聞こえはいいが、未だに大人にもなれないでいる私には大人の終わりに始まるものがわからない。
私の思考は「始まり」と「終わり」のあいだで迷走している。
今日、首都圏は昼過ぎから大雪。会社の指示で早めに退社した。地下鉄に乗れば近くまで帰れるから問題ないと高をくくっていた。ところが駅前のバスの乗り場には長蛇の列。あきらめて降りしきる雪のなかを歩き出した。
思い出して、『八甲田山』のサウンドトラックを聴きながら歩く。
これは予行演習かもしれない。いつか、こんな雪のなかをジンの青いボトルを抱え、懐に短刀をしのばせて冷たくなるまで歩いていく。その夢を私はまだ捨ててはいない。
迷走しながらも、私の心はまだ「終わり」に傾いている。
現在はいつも無様で泥沼の様相を呈している。それを変えることはできない。現在は過ぎ去ったと同時に過去になってしまうから。
未来に向かっていくこともできない。人間は現在にしか存在することはできないから。
未来は瞬く間に現在となり、すぐさま過去になる。
私にできることは、せいぜい現在が過去に変わる一瞬の隙に未来を手繰り寄せること。
たとえば、これから書くことを再開することで生きる勇気を取り戻し、今はまだできずにいる、「人生にYes」と言えることができるようになるかもしれない。
あるいは、少年時代から抱えている秘密の重さに耐えきれずに、ひとりただくずれさり、「この世界」から立ち去るかもしれない。
遺された「最期の手紙」。この手紙を読み終えることができるか。そもそもこの重過ぎる手紙を読み始めることができるか。
こうした意味でも、「終わりの始まり」という言葉は私にとって矛盾した意味を持ちつつ、深い思索を促している。
これからしばらく「終わりの始まり」について考えてみたい。「終わり」と「始まり」がどうつながるのか、生活のなかで、「 日常を掘り下げる」ことで見出したい。
ふと思いついた「終わりの始まり」という曖昧な言葉から 出発して、どこかに辿り着けるだろうか。その意味を定義することができるだろうか。
焦らず急がず。多読も多筆もしない。思えば、 一儲けしたいとか、 病気を治したいとか、 仕事を見つけたいとか、 正社員になりたいとか、ずっと焦ってばかりで空回りをしていた。
何も焦ることはない。「せっかく」障害者枠で「残業なし、出張なし」 という配慮をしてもらいながら働いているのだから、のんびり歩いていくつもり。
欲張らず、謙虚でいること。これも大切。
今日は先月亡くなった父の86回目の誕生日。
追記。
「終わりの始まり」という言葉を使ったのは初めてではなかった。第三部を終えるときに使っている。このときは本当に「終わりの終わり」が来るような気がしていた。
そのとき、もっと苦しい時間が来ようとは予想だにしていなかった。
写真は昼の終わりと夜の始まり。いわゆる黄昏時。