文学の思考 サント=ブーヴからブルデューまで、石井洋二郎、東京大学出版会、2000


文学の思考

斎藤兆史・野崎歓『英語のたくらみ』(東京大学出版会、2004)で紹介されていた本。どういう文脈だったかは忘れてしまった。法学部卒の社会学者が文学に新鮮な見方をもたらす、という紹介だったかもしれない。

メモしたことさえ忘れた「これから読む本」のリストで発見して借りてきた。ちょうど定期的にやってくる本を読むことが苦痛に感じる時期だったので、本を読むとはどういうことかを考える講義は自分にとって読書とは何かを考えなおすいい薬になった。

本書は書名が示すとおり、19世紀から現在に至るまでの文学批評の流れを主にフランス語で書かれた文章を中心に概観する。序章で『坊ちゃん』を題材にして、作品、テクスト、パラテクストといった用語が整理されていて、後に続く講義がわかりやすくなるように工夫されている。

要約してしまえば、文芸批評は外的読解から内的読解に移り変わり、最近では外的・内的は対立ではなく、相互補完的にとらえられている。


自分が書き残した書評を読みかえしてみると、理論など自覚していないために視点はばらばらになっている。作品に作者の才能や境遇、時代背景ばかりを読み込む安直な外的読解にすぎないものもあれば、物語の登場人物になったつもりで書いた内的読解と言えるような感想もある。

歴史的にみれば一直線に見えても、一個人のなかでは読む本のジャンルもさまざまあれば、読み方もさまざま。問題は、自分の読み方についた、言ってみれば癖のようなものをどれだけ自覚しているか。ブルデューのいう「ハビトゥス」をこのような意味で私は理解した。

これまで書いた書評には、両極端でないものもある。石井がブルデューを通して提起している「読みのプラティック」に近いものかどうかはわからないけど、自分で気に入っている文章は、どちらの性質もあわせもっているように思う。


面白かったのはサント=ブーヴの章。19世紀には出版が容易になったため爆発的に書き手が増えた。そうして書かれた「産業文学」をサント=ブーヴは批判し、文芸作品をある種の天才だけが書ける特権的な芸術であると主張したという。

サント=ブーヴが否定的に見た19世紀の「産業文学」の世界は、21世紀初頭にもあてはまる。いまや誰もが何についても書けるし、また実際にいろんな人がいろんなことを書きまくっている。けれども、そのような文章のほとんどは読んで何も感じない。書き手の人間性が感じられるわけでもないし、没入できる世界をもっているわけでもない。

そうかといって、今さらサント=ブーヴのように素朴に書くことを天才だけに任せることもできない。誰が天才かを見分けることが難しいというだけではなく、才能ある人は売れれば売れるほど、一人では書いていられないから。

現代では、職業作家の作品に一人の才能を見出すことは、ほとんど不可能ではないだろうか。企画や取材先行で作品は書かれ、編集者の過剰な介入で筋書きも変わる。資料の収集・整理には、専門の担当者がいるらしい。詳しい実態はよく知らないけど、いわゆる文芸作品の世界でも、専門化、分業化、組織化が蔓延しているように感じる。実情は編集者やアシスタントと共同で制作することが当然と思われているコミックの世界に近いのではないか。

そうして書かれた作品に、ある時代の空気や、ある人々の思いを見出すことはできるかもしれないとしても、ある一人の人間を見出すことはできない。一人の人間が一人の人間として存在することはありえない、人とつながり、助け合って生きるのだから、作品もそういうものだと言う人もいるかもしれない。


私はそうは思わない。人間は一人で生きられないからこそ、一人だけの世界を築こうとするのではないかと思っている。それが成功できるかどうかは問題ではなく、それに挑むことに意味があると思っている。

そう、「読むこと」について考える講義を読み終えて、今度は「書くこと」について考えるようになった。石井は、創造者の「この唯一性をより明確な形で、ふたたび見出す」という言葉を引いて、ブルデューの社会学的な読解を紹介するけれども、もし冷徹な分析に濾過されたあとで唯一性が残らず、あとに残るのは部数倍増という会議の議事録や、いくらでも取り替えることができるキャラや「群れ」でしかないとしたら、文学作品を読む意味はなくなる。

サント=ブーヴは、確かに素朴な天才信仰を持っていたかもしれない。でも、彼がそう思えたのは、そう思えるような、たった一人の途方もない情熱によって書きあげられた作品が存在していたからではないだろうか

誰もが何についてでも書く時代。作者とは誰なのか。読む側からだけではなく、書く側からも問う必要がある。それは私を含めて、多くの人が書くことを通じて読むことを経験しているから。


ブルデュー的な読みは社会学的な分析を通じて「創造者の唯一性」を浮かび上がらせるという。無自覚な表現は社会学の用語で簡単に分析され、跡形も残らないだろう。何を分析されても分析しきれないものは、作者が自覚的に表現することを徹底してはじめて、濃密に残る。作者が自覚的に書いたものでなければ、記録と言うことはできても作品と呼ぶことはできない。

音楽や絵画に比べると、文章や写真は無自覚に表現することができてしまう。だから多くの人ができる分、いい作品を見つけることや、まして生み出すことは簡単なことではない。少しでも自覚的に書いたり撮ったりしてみるとよくわかる。

石井の紹介するブルデューの考え方で、もう一つ、興味を引いたものがある。それは正統をめぐる闘争という見方。ある作品がいま名作と言われているのは、それ自体に名作という不動の価値があるからではなく、誰かが名作と呼び、その評価が受け継がれてきたから。その積み重ねのなかで、脱落するものもあれば、発掘されるものも、再発見されるものもある。

ということは、私自身も批評を書くことを通じて、この名作を残していく歴史的な闘争に積極的に関わることができると言えないだろうか。今の時代に名作と呼ばれている作品でも、いまの人々が名作と言わなければ次の時代には残らない。図書館では書庫に眠り、ネットでは誰も言及しない、世間で忘れられた作品でも、私が素晴らしいと思って書いた書評を誰かが読み、その作品をまた読んだり紹介したりしていけば、その作品は未来に残るかもしれない。

もちろん、名作・傑作・必読のように、どこにでも切り貼りできる言葉で紹介するだけでは、読んでみようと思わせることはできない。批評は、ほかの誰かがその作品に興味を持つような文章でなければならない。その意味では、批評とはきわめて個人的な芸であるという、ロラン・バルトの章にある見方は、研究者にとっては懸念かもしれないが、私にとっては的確な目標になる。


感想文を書くことばかりではない。私が「誰か」に読み聞かせてもらった本を、私がまた「誰か」、ほかの人に読み聞かせれば、「誰か」は、ほかの「誰か」、次の「誰か」に読み伝えていくかもしれない。

そう考えると、後世に残る作品が現代にないと嘆いたり、つまらないと思った作品をわざわざこき下ろしたりしている暇はまったくない。


さくいん:ピエール・ブルデュー