土を掘る 烏兎の庭 第三部
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2009年1月


1/3/2009/SAT

紅白歌合戦

2008年の大晦日、例年通り、にぎやかに集まり、紅白歌合戦を見て過ごした。クルマを運転しなくなってからラジオを聴く時間が減り、新しい曲を知る機会も減った。出場する歌手の半分以上は名前も知らないし、歌がはじまっても、耳にした覚えもない。そこで、パソコンを横に置いて、インターネットで歌手のプロフィールを調べながら見た。

そうして、紅白歌合戦で初めて聴いて興味をもった歌手もいる。世の中でも、そういう傾向があるらしい。静かなブームから紅白出場が決まり、紅白歌合戦が火をつけて、年が明けてから大ヒットになっている秋元順子のような例もある。視聴率40%という数字は、テレビ番組全体の視聴率が低下している中では、まだまだ異常な影響力をもった数字と言えるだろう。

思い出せば、夏川りみの「涙そうそう」も、全国的にヒットしはじめたのは、紅白歌合戦を過ぎた2003年になってからのことだった。

映画や他局での話題曲が並び、NHKは他人の褌で勝負していると揶揄されてもいる。裏を返せば、一年の最後に「今年の話題」を総ざらいする場所として、『紅白』はまだまだ力を失っていないことを示している。

一年に一度くらい、こういう“ベタ”な番組があってもいいと思う。出演者を見ても、舞台装置を見ても、これほど大掛かりなテレビ番組はもうない。私は、前から紅白好きだったわけではない。


紅白にすっかり興味を失くし、大晦日は初日の出まで外を出歩いていた時期もある。80年代の半ばから、90年代の初め頃まで。年齢でいえば、19歳から23歳まで。1993年の年末年始は、ブリュッセルにいた。

紅白の面白さをあらためて教えてくれたのは、ナンシー関。彼女は私に、紅白歌合戦がテレビ界で、唯一最強の“ベタ”な芸の場であること、言葉を換えれば、テレビがテレビであるための最後の砦であることを教えてくれた。

20年以上前のこと。イッセー尾形の一人芝居をビデオで見た。紅白歌合戦を見ながら、大事のなく平穏だった家族の一年を振り返り、一人悦に入る親父という演目があった。家族そろって紅白歌合戦を見ていると、イッセー尾形が演じていた“ベタ”な父親の姿を思い出す。

ところで、昨年の紅白では、第一声は司会者ではなく、大橋のぞみが歌う「切手のないおくりもの」だった。彼女が歌う「崖の上のポニョ」を聴いているうちに、ためらっていた映画の感想を映画を見たことを記した日誌に追記することを思いついた

写真は、千両でつくった松飾り。我が家で正月に飾りつけをするのはほとんど30年ぶりのこと。


1/10/2009/SAT

つぶやき岩の秘密(1973)、NHKソフトウェア・アミューズピクチャーズ、2001

今から4年前、1970年代に放映されていたNHK少年ドラマシリーズの一つ、『つぶやき岩の秘密』のDVDを図書館で見つけて借りて見た。20年ほど前、私が学生だったころ、ビデオが発売されたときには買ったはずなのだけれど、いつの間にか処分してしまったらしい。転職してDVDを借りられる図書館からは離れてしまったので、自分でDVD版を買いなおすことにした。

4年を経て見なおしてみて、思うところは4年前と変わらない。紫郎が怖いくらいに大人びていることと志津子があまりに幼いこと。それから、再放送時でもまだ幼稚園児だった私がなぜ、この物語を覚えていて、中学生になって原作を読んだり、こうして何度も映像作品を見るほどまで心に残しているのかということ。


ときどき同年代の人に、「むかしのことをよく覚えているね」と言われる。自分ではそれほど昔話ばかりしているつもりはないけれど、「むかしの話ばかりするね」と言われることもあるし、「ホントはもっと歳をとってるんじゃないの?」と言われることもある。

抽斗の奥にしまっておいていたのに、何かの拍子に突然、噴き出してくるような記憶が、私にはある。

ほんの数年前のことでも忘れてしまっていることがたくさんあるのに、おぼろげながらでも10歳より前のことで覚えていることもある。前に読んだベルクソンの概説書に、「人は忘れるのではない、経験したことはすべて記憶されていて、ただそれを思い出せなくなるだけだ」というようなことが書いてあった。

もしかすると、ベルクソンはそんなことは言ってなかったかもしれないけど、私は勝手に、記憶とはそういうものと思っている。


DVDは、今はもうなくなったNHKの時報画面ではじまる。この映像を見ているだけでも、幼かったころ、テレビの前に揃っていた家族の様子を思い出す。私が覚えている、というよりも、忘れられないでいるのは、『つぶやき岩の秘密』の物語ではなく、それを見ていたときの私のまわりの様子なのかもしれない。

思い出す、ということは、何が、いつ、きっかけで起こるのか、わからない。いつも意外なものが「マルセルのマドレーヌ」になる。

前回は夜中に一人で見た少年ドラマを、今回は家族皆で見た。こうして自分が子ども時代に出会った作品を、映像でも、音楽でも、自分の子に与えることは、身勝手でセンチメンタルな回想に無理やりつきあわせているようで、申し訳なく思うこともある。そうではなくいつの時代の作品であれ、自分がよかったと思うものを伝えていくことは、間違ったことではないと思うこともある。

今週、MXテレビで続いていた『ドカベン』の再放送が終わったときにも、年末年始の休みの間に『刑事コロンボ』「意識の下の映像」(Double Exposure, 1973)を見たときにも、同じことを考えた。

劇中、コロンボはキャビアを大きなスプーンで3杯も頬張る。羨ましくなり、奮発して一瓶買った。一人スプーン3杯とはいかなかったけれど、大晦日に8人で分けて食べた。


私の子どもはすっかり70年代の文化に染まっている。もっとも、そんな事態はうちに限ったことではないらしい。『ウルトラセブン』『未来少年コナン』を知っている友だちも少なくないという。さすがに『奥さまは魔女』や『刑事コロンボ』に詳しい小学生は近くにはいないらしい。

私より若い世代ならば、野球よりサッカーを共通体験にする人が多いかもしれない。若いころから深く音楽に浸った人ならば、子どもが生まれてからも家庭に音楽があふれているだろう。

それぞれの家庭の文化が、それはまさに文化と言っていいだろう、親の育ってきた環境や趣味によって異なることは、むしろ当然のこと。

文字もない時代から、人々は自分が気に入った作品を次の世代に伝えてきた。それが、長い年月を経ていつしかクラシックや古典と呼ばれるようになる

問題は、新しいか古いか、ではない。どんな風に伝えていくか、だろう。記憶されるものは、作品の中身以前に、作品に触れたときにそのまわりに漂っていた空気とすれば。

写真は、正月にで見つけた万両。すぐ隣りには少し背の低い千両もあった。正月飾りは、この千両、万両でつくってもらった。


1/24/2009/SAT

クンタ・キンテとトビー

2004年1月23日、ちょうど5年前の日誌に「クンタ・キンテ」の名前を追記

ドラマ『ルーツ』については、まだ書いたことがないと思っていた。検索してみると、同じ場面について2004年4月24日にすでに書いていた。

名前というと、前から不思議に思っている素朴な疑問がある。新聞やテレビの報道番組で中国の人の名前は現地の発音、つまりその人が呼ばれている呼び方でなく、日本語の漢字の読み方で呼ばれている。

たとえば、メジャー・リーグの王建民はChien-Ming Wang、NBAの姚明はYao Mingと、それぞれ現地からの中継で表示されているにも関わらず、アナウンサーは「おうけんみん」「ようめい」と呼んでいる。

ついでに書けば、姚明は出身地で呼ばれているとおりに姓名の順、王建民は、アメリカ風に名姓の順と一貫性がないことも不思議。

William JoelではなくBilly Joelと呼び、Irwin JohnsonではなくMagic Johnsonと呼ぶ。もともと米語では本名という規範が緩やかなのかもしれない。

中国では日本人の名前は中国語の音で読んでいるという。互いに自己流の読み方をするという暗黙の協定があると聞いたことがある。ほんとうだろうか。

それが本当としても、この協定に何の利益があるのか。自分が呼ばれたこともない呼び方で呼ばれて喜ぶ人はいないだろうし、そもそも呼ばれても、振り向くことさえしないだろう。

この無益な慣習は、いつまで続くのだろう。

韓国と北朝鮮の人については、カタカナで原語読みを書いたり、漢字のわきに原語に近いルビを振るようになってきている。


第44代アメリカ合衆国大統領に、バラク・フセイン・オバマ(Barack Hussein Obama II)が就任した。黒人アフリカ系としてはじめての大統領という事実よりも、移民2世を大統領に選ぶ国民の度量の広さに驚く。

日本では、外国籍から日本国籍を取得した、いわゆる帰化した人たちにはその事実を公にしたくない人がまだまだ多いと聞く。スポーツ選手や歌手が帰化人であったり在日2世であることが秘密を暴くように週刊誌に書かれることもある。こういう国では帰化した人や、その子が総理大臣になる日は、まず近い未来にはないだろう。

書いていなかった1月3日の日誌を新たに追記。そのなかで、さらに昨年9月の日誌に追記したことを明記。

写真は、横浜ランドマークタワーから見た丹沢方面の夕焼け。


1/31/2009/SAT

建築家の自由――鬼頭梓と図書館建築、鬼頭梓+鬼頭梓の本をつくる会、建築ジャーナル、2008

私の図書館建築作法――鬼頭梓図書館建築論選集・付最近作4題、鬼頭梓、図書館計画施設研究所、1989

横浜郊外の新興住宅地に住み始めた1975年、横浜市にはまだ図書館のない区があった。やがて区立図書館はできたけれども、人口10万人以上の区に一つできただけで、区役所がある中心部まで自転車かバスで行かなければならなかった。

東京に住むようになったとき、東京では、一つの市や区に複数の図書館があるのも珍しくはないことを知り、とても驚いた。戦後の公共図書館の歴史が東京の日野市からはじまったことや、革新都政が長かったこととも関係があるかもしれない。

図書館、公園、それから美味しいパン屋。家はとても狭いけれど、この三つが揃っているいまの住環境に、私はとても満足している。

写真は鬼頭梓が設計した、私がいま住んでいる街の中央図書館。入口は左端にある。雑誌と新聞の閲覧コーナーとなっている一階の正面は、二階まで南向きに大きな窓のある吹き抜けになっている。

索引の項目に新たに「建築」を設け、鬼頭梓と前川國男の名前を入れた。


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