土佐日記(935頃)、紀貫之、鈴木知太郎校中、岩波文庫、1979


小泉義之『弔いの哲学』は、最終章で紀貫之「土佐日記」を肯定的にとりあげている。誰かを悼む気持ちで創りあげても作品で死者を弔うことはできない、書き上げた作品を打ち捨てることが死者を弔うことになる、だから作品は捨てられるために創造される、という考えを、小泉は「土佐日記」から引き出している。

古文は高校以来、読んだことがない。「土佐日記」は、確かよく知られた冒頭を読んだだけ。今ごろ平安時代の古典が読めるものか、不安をおさえて、ともかく『土佐日記』を手にしてみた。読んでみると、意外と読みやすい。もちろん、小泉の解釈やていねいな解説のおかげもある。忘れたように思っていた古文の勉強はいくらか身についていたらしい。これは、代々木ゼミナールの土屋博映先生のおかげ。


私が気づいていなかった『土佐日記』を読むうえで大切なこと。これは日記ではない。日記という形式を借りた虚構、つまり日記体の小説。土佐の国司をしていたことや娘を亡くしたことなど、書かれている内容は事実に基づいているようだけれども、文章は旅の途中で書き上げられたものではないらしい。かなりの時間をおいてから書かれ、しかも緻密に構成され、たとえば終盤には緊張感を高めるように短い文が繰り返されるなど、文章も周到に推敲されているという。だから「土佐日記」は記録ではなく、作品といえる。

作品とは何か。これまでの読書から学んだことをまとめると、作品には明確な始まりと終わりがあり、全体を組み立てる構成がある、そして全体を貫く一つの視点、ビジョンがある。ビジョンとは、文芸にあっては文体のこと。「土佐日記」は、これらすべてを備えている。とくに文体という点では、「土佐日記」は画期的で、衝撃的でさえあった。公文書はほとんど漢文で書かれ、和歌以外にはひらがなの使われていない時代に、紀貫之は、あえてひらがなを使い、しかも女性の立場から日記体を書いた。


なぜ貫之は女性になったつもりで、ひらがなを使って作品を書き上げたのだろうか。もし、文体が文芸の形式だけの問題であるなら、まったく正反対の試みもできたはず。つまり、職業でしか用いない漢文を使って、内面的な感情や私的な出来事を表現する方向もとれたのではないか。なぜ、それをしなかったか。解説は、日本語に対する強い意識があったと説明している。

職業で使う言葉では表せない気持ちがあったのかもしれない。それにしても平安人というと、宗教としては仏教が盛んだったし、「土佐日記」にも記されているように事細かな行事や慣習のあふれていた時代。子を亡くした悲しみは、宗教や有職故実では和らげられなかったのだろうか。とすれば、私が抱いていた平安人像とはだいぶ違う。

職業で使う言葉では表しきれず、宗教や儀式でも解消できない気持ち。それをふだん使っている言葉で表現しよう、できると思うことは、言文一致に匹敵する革命的な発想といえる。もっとも、要所は定型詩である和歌で締められており、「土佐日記」は同時代の約束事から完全に逸脱しているわけではない。約束事を守りながら、新しいスタイルを探求している。


ここから先は憶測。日常語で気持ちを表現したいという発想には、漢語をふだん用いない妻とその感情を共有したいという意識があったのではないだろうか。「土佐日記」は女性の立場から書かれている。つまり、作者は亡くした子を生んだ母ということになる。子を亡くした母の思いを推しはかる気持ちが、文体を選択する背景にあったのではないだろうか。

少なくとも、自分がふだん使わない言葉で書くことは、自分の奥底に鬱々と発酵する悲しみを客観的に見る鏡の役割は果たしたに違いない。

また「土佐日記」では、妻と思われる旅の同行者も娘を悼む歌を残している。貫之はそのような場面で同行者を持ち出すことにより、悲しみが一人きりのものではないことを暗示しているのかもしれない。


ところで現代の日本語では、文体はどうなっているだろう。狭い意味での文体、書き言葉の言葉遣いという点では、ブログでも本でも文章は会話調に傾き、その傾向は日々強まっている。日常語で感情を表すことは当然のことで、そこには何の疑問もないようにみえる。書き言葉はよそよそしい。話した言葉をそのまま写し取った文章が、そのまま気持ちを表していると思う人のほうがきっと多い。

全体の構成や一貫したビジョンという点は、ほとんど見失われているのではないか。これにはおそらく理由がある。作品という囲われた世界は息苦しいものと、多くの人が感じているのではないか。そこまで考えなくても、壮大な物語に浸っている時間がないのかもしれない。この点は、私自身にもあてはまる。閉じた作品世界が、誰かを排除したり抑圧したりする、イデオロギーという硬直した精神構造を生むという懸念もあるかもしれない。


反書き言葉、反作品という今の文体の特徴は、ブログという表現形式に象徴される。いつからでも始まり、決まった終わりはない。外へ出ることも、外から来ることもできる。それを開かれた表現形式と呼ぶことに、異論はない。そういう形式に向いている内容もあるだろう。

作品という構造をもちながら、硬直した性質から逃れることはできないか。そのためにはまず、ビジョンそのものが柔軟で、それでいてしっかりと地に足がついていなければならないだろう。


小泉義之は、作品は捨てられるために書かれるという。 捨て去るためには、何かの形がなければならない。言葉に形がないとは思わない。定義や概念は、言葉の形のことではないか。そして、作品は定義された言葉によって積み上げられるものではないか。

言葉に形を与えるのは、言葉を形あるもの、そして言葉によって表される気持ちを形あるものとして見る眼。スタイルを決めるのは、形ではなく眼、ものの見方のほう。今はとりあえず、そういう結論にしておく。ビジョンをどう見出すかは、これからの宿題。


一つ残る疑問。作品に終わりはあるだろうか。形のうえでは終わらせることはできる。しかし、物語の終わりは作品の終わりではない。書き上げた作品は、書きなおすことができる。そして、作品は書かれ続けるだけではない。作品は読まれる。読まれ続ける。読まれ続ける限り、作品に終わりはない

旅程は淡々と語られる。天候に左右され、海賊に怯える当時の船旅の様子は伝わるけれど、描写は詳細ではない。京が近づくにつれ、さらに風景より心理描写が増える。それは帰り着いたときにどんな気持ちになるか、すでに予期しているせいかもしれない。


意外と読みやすいとはいっても、全文を読み終えるにはそれなりに苦労した。貫之にとってようやく帰り着いた場所が悲しみを新たにするに過ぎなかったように、あらかじめ知っていても苦労して読み進んでたどりついた結末は、思っていた以上に痛々しい。

貫之は離れていた我が家に残る松の木を見て、帰ってきた喜びをかみしめながら、帰らない命に悲しみを新たにした。ろうそくの炎を眺めながら、楽しい誕生日の思い出とその誕生日が二度とめぐってこない悲しみを感じた男の気持ちに通じる

忘れがたく、口惜しきこと多かれど、え尽くさず、とまれかまれ、疾く破りてむ。

紀貫之は、こう言い切れるまで、作品を書き続けなければならなかった。書き上げたときの彼の気持ちはどうだったろう。なお残る悲しみと徒労感だったろうか。それとも、何か違う気持ちだったろうか。よくわからない。


つまり、ここから私の読みがもう一度はじまる。それは、「土佐日記」を読みなおすのではなく、「土佐日記」を読んだ私自身を読みなおすことになるだろう。

確かに、「土佐日記」の和歌を読んでいて思い出したことがある。古文を読んだのは高校のとき以来ではない。その後にも一年間かけて「万葉集」の挽歌の話ばかり聞いたことがある。壇上で話す歌人は、いつでもほろ酔いかげんの赤ら顔。ふと、そんなことを思い出した。

講義の結論は、飛鳥時代の人々は、形式的な歌にやり場のない悲しみを封じ込めたということだった。

千年前に生きていた紀貫之という名前が、教科書の中から、私の中に棲みついた。