書く、ウェブに書く


インターネット上に文章を書くようになり数ヶ月が経つ。書きながら、これまでとは文章を書く気持ちが違っていることに気づいた。その違いを一言で言えば、文章が手元からいつまでも離れていかない。

文章は書かれたとたんにテクストとして自立し、書き手から離れていくということをどこかで聞いたことがある。出版される本の場合を考えれば、よくわかる。一度書かれた文章が本として出版されれば改訂版が出されるまでは、内容を訂正することはできないし、何らかの理由で流通を停止させたり、出回った本を回収したりすることは可能としても、それで世界から抹消できるわけではない。本を出した事実はなかなか消すことができない。

これに対しウェブ上の文章は、いつでも修正することができる。気に入らないものは削除することもできる。もちろん閲覧されたコンピューターに保存されていることもあるけれど、本の回収や出版停止と比較すると削除の完全度が高い。買っておいた本をあとで開いたら、一つの章だけ消えているようなことが、インターネット上では起こりうる。複写や保存をしていれば別だが、そうでなければ、あるいは削除後にはじめて見る人にとっては、はじめからないも同然。


閲覧者から見るとホームページは常に完成されたものとして見える。作成者にとっても、サイトにアップロードしたわけだから完成したものではあるけれども、すぐ次の瞬間に書き換えることもできる未完成なものでもある。完成と未完成が同時に存在する。これは従来の本を最終地点とした文章表現にはなかった特質と言っていいのではないだろうか。

画家のなかには、一度売り渡した作品さえ、手直しをする人もいる。音楽でも、演奏するたびに少しずつ変化することがある。文章は、印刷という技術のために、やや硬直していたかもしれない。いずれにしても、ネット上の文章表現は「未完の旅路」を実践可能にする。

「文章は書かれたときに作者を離れる」という考え方からすれば、文章による作品は「書かれたもの」。これに対してウェブ上の文章は、「書かれ続けるもの」ということができる。著者が生きていて、更新する意欲がある限り、作品は著者から離れていかない。

著者の考えが変わってその気になれば、内容を完全に書き換えることもできる。この意味で、原理的には、つねに著者が現在もっている思考と一致させることが、ウェブ上では可能になる。


角度をかえてみると、インターネットには歴史がない。つねに現在しかない。更新履歴をほとんどのサイトが記録しているのは、それがなければ、いつどこが変更されたのか、作成する側もわからなくなってしまうから。日記のように時系列的に文章を書いている人が多いのも、ウェブの非歴史的な側面に無意識のうちに抵抗しているのかもしれない。

ウェブの非歴史性は欠点でもなければ長所でもない。コンピューターとネットワークの技術革新によってもたらされたインターネットがもつ特徴の一つにすぎない。他のメディアにないせっかくの特徴だから、ウェブ上で書くときには活用しない手はない。気に入らないところはどんどん加筆修正し、思いついたことをどんどん書き足していけば、「いま」の私が考えていること、知的関心の世界をそのままネット上に再現することさえできるかもしれない。

もちろん、これは過去を切り捨てていくことを必ずしも意味しない。昔のことを懐かしい思い出として、そのままの形で記憶をとどめようとするように、ある文章を初めに書かれたまま残しておきたいと思うこともあるかもしれない。それを選ぶのは、つねに時間の先端にいる現在の自分。その意味でも、ウェブ上の文章はつねに「現在」にある。


独立した世界を文章によって次々と創りあげていく小説のような形式の文章とは異なり、私がもっぱら書いている批評文は、同じ主題を何度も何度も考え直し、何度も何度も書くような形式をとる。その点でウェブの現在性は、批評文という形式に適しているといえるかもしれない。

また、おそらく最も重要な点として、一度や二度の推敲では思い通りの文章が書けない文章初級者には、何度でも書き直しができる特徴は何といってもありがたい。


碧岡烏兎