土を掘る 烏兎の庭 第三部
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5.3.08

「弱い父」ヨセフ キリスト教における父権と父性、竹下節子、講談社選書、2007


竹下節子の名前は昨年一年間読んでいた月刊誌『カトリック生活』(ドン・ボスコ社)の連載「カトリック・サプリ」で読んでいた。この雑誌は林温「キリシタン絵画を紐解く〜マリア十五玄義図から〜」を読むために読みはじめたもの。

聖書に出てくる人物たちのなかで、イエスの養父ヨセフのことが気になっていた。聖書そのもののなかには記述は少ないし、それ以外にも伝説めいた話もほとんど聞かない。

以前、ジョルジュ・ラトゥールの絵を見て、年老いても息子の目の前で黙って力仕事に精を出す姿を見て、実篤な男の生涯を想像したことがあった。

キリスト教というと、強い父をイメージさせる唯一神の宗教と家父長的な家族観という思い込みをついしがち。神の方から眺めればそうも見えるけれど、父ヨセフからみれば父親は強権的であるどころか、存在感も薄い。


著者は、神の子イエスと処女懐胎した聖母マリアの母子関係を強調する一方で、神と重なる父の存在を背景に押しやった初期教会のヨセフから、歴史のなかで徐々に存在感を増していった聖父ヨセフの変遷をたどる。

そして、キリスト教への先入観にまとわりついている強権的な父親像とは異なる父親像を二十一世紀の父親の新たな模範として提示する。

ヨセフ像の解釈にしても、新しい父親像にしても、カトリックの教義に依拠にしながらも従来の先入観を転覆させて新鮮な見方に感じられる。ただ、現代に求められる父親像をヨセフを通して考えるならば、二つの点でまだ踏み込みが足りないようにも感じられる。

一つ は支える父というイメージ。妻と子を養いながら、彼らを一方的に導くのではなく、一歩退いたところに静かに立つ父。このような存在の仕方は従来、むしろ母親像として流布してきたもの。例えば、ヨセフはヘロデの嬰児虐殺を逃れて家族をエジプトに移し、安全になったところで帰郷した。その時々で子どもにふさわしい生活の場を選ぶことは、聖書と同じくらい古い「孟母三遷」という言葉からは、母親の務めにも考えられる。新しい父親像は、かつての母親像と重なるものなのだろうか


ジェンダー・フリーが声高に叫ばれる時代には、そうした父母の境界線のないことこそふさわしいのだろうか、それとも男性であるゆえの父親の独自の役割というものがあるべきなのだろうか。

もう一つは、弱い父というイメージ。身重の妻をろばに乗せ、故郷へ歩き、さらに外国までも連れて行ったヨセフは強い父親ではないにしても、けっして「弱い」父親ではない。したたかで、たくましい父親と言えるだろう。

それではヨセフのように家族を守れない父親は、父親として失格なのだろうか。病弱な父、失業した父、ふさぎこんでいる父、泣く父、そして老いていく父。こうしたほんとうに「弱い」父親たちは、ヨセフから何を学べるだろうか。


連休中、NHKでドラマ『ファイブ』を見た。劇中、妻であり母である高島礼子は夫であり父親である岸谷五郎に、「私たちは勝っているお父さんを見たいんじゃないの、コートに立っているお父さんが見たいの」と言う。

今年はじめ、ときどき出かける宿のシアター・ルームで映画“Night Museum”を見た。父親とは、ほかの人にっては何であれ、子どもにとってはヒーローなんだな、そう思った。金持ちでやり手ビジネスマンの母親の新しい恋人より、魔法のような世界を見せてくれた父を少年は選んだ。大団円でにぎやかなパーティーとなった終幕に流れた曲は、Earth, Wind & Fire“September”。これからは、この曲を耳にするたびに親子で口ずさみ、踊ることになるだろう。これもまた、父親世代と子ども世代を結ぶいまどきのマーケット戦略「父子消費」の一端か。

勝ち負けではない、そこにいることが父親の存在する意味。そうまとめることはできるかもしれない。それでも問題はまだ残る。

そこにいる、というときの「そこ」とはどこだろうか。毎晩の食卓だろうか、すでに家族が寝入った夜遅い寝室だろうか、それとも心のなかでさえ、確かに存在しているのならば「そこ」と言い切ることができるだろうか。

それとも、私の仲間の親父たちがそうだったように、父親のあり方というものは、それぞれの家庭によって違っていて当然なのなのだろうか。


とすれば、問いは、父親はどうあるべきか、ではなく、私はどういう父親であるべきか、ということになる。

父親とはいったい何か。それは私のこと、という答え以上のものを、私はまだ見つけることができていない



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