外出自粛の長い大型連休が始まった。有り余る時間を何に使うか。考えた結果、ふだんは読まない小説を読んでみることにした。
恩田陸『蜜蜂と遠雷』は、大学生の娘に以前、誕生プレゼントとして贈った本。筋書きも知らず、頼まれて贈っただけ。それを思い出して、直木賞受賞作を読んでみることにした。
恩田陸はやはり娘の本棚から借りて『夜のピクニック』を読んだ。読後感は悪くなかったので、今回も受賞作品に期待して読みはじめた。
厚い本でなおかつ2段組。読み終えるには連休いっぱいかかるか、という恐れは杞憂で、話がテンポよく進むので二日で読み終えた。
「青春群像小説」。帯に書いているある言葉は間違ってはいなかった。四人の主人公たちは丁寧に性格からその時々の気持ちまで細やかに描写されている。
その四人の物語が終盤で一つに集約されていくくだりは読み応えがある。元々は面識のない明石と亜夜が抱擁する場面では高揚した。
結末も期待どおりでよい締めくくりだったと思う。
楽しい読書体験を過ごした一方で、没入する読者になりきれず「こういう小説がいまは評価されるのか」と客観的になってしてしまう場面もいくつかあった。平成以降の小説の文体にはどうもなじめない。去年の春に読んだ梨木香歩『海うそ』を読んだ後にもそう思った。
突飛な設定、地の文にまで使われる若者言葉、作者がカッコ内で説明してしまう登場人物の心情⋯⋯ 。エンターテインメントだから細かいことにこだわるのは野暮なことだろうか。
言葉の使い方も気になった。たとえば「超弩級」という言葉が何度か使われている。この言葉は元は英戦艦ドレッドノートを超える大きさの船を表す言葉で「超ドレッドノート級」という意味だった。こういう場違いな言葉が使われていると私は「引いて」しまう。
同じようにピアノを題材にした小説では児童向けで『もうひとつのピアノ』を読んだことがある。これはとてもよかった。ジャンルが違うのだから優劣を比較するつもりはない。
本書がいま好まれる小説とすれば、私の文章は若い人にはきっと堅苦しくて、重いと感じられるだろう。
私はプロではないので売れる文章を書く必要はない。自分が好む文体で書く。まだ文体と呼べるほど確立されたスタイルではいないけど。
さくいん:恩田陸
半袖のシャツを着て
今年初めて、半袖のポロシャツを着て散歩に出た。吹き抜ける風が爽やかで心地よい。
お気に入りの公園へ着くと「不要不急のご使用はご遠慮ください」という立て札。公園に来ることに急ぎも不急もないだろう。思わず苦笑する。
小さな公園だけど、見所の多いところ。竹林もあればカエデもあり、小さな滝まである。
こんな長閑な公園にまで新型ウィルスの影響が打ち寄せている。この外出自粛の暮らしは一体いつまで続くのだろう。ふとため息が出る。
公園を出るとすぐ大学を囲むけやき並木の道に出る。けやき並木を過ぎれば大通り。そこから商店街のある繁華街はもうすぐそこ。この街のいいところは、こんな風に人が住んでいるところと繁華街が地続きになっているところ。
商店街の人出はどんな感じだろう。いつも長い行列ができている肉屋の前はどうだろう。列がなかったら一度も買えたことがないメンチカツを買って帰ろうか。好奇心が湧いて商店街まで足を伸ばした。
商店街まで来てみると、果たして人出は思った以上だった。観光で来る人もいるこの街、その分だけ少ないようにみえる。いつもの週末に比べると5割減くらい。ここがこの街の難点でもある。生活圏が近いのでふだんの買い物の人だけでも大勢集まってしまう。
肉屋の前の行列は短かった。やはり観光で来ている人が少ないからだろう。数人待てば、この街の代名詞と言ってもいいメンチカツは買えそう。さあ、どうする。
長考の末、決めた。買うのはやめよう。買って帰ったら家族は呆れるだろう。顰蹙を買うかもしれない。人混みへ出たことについて小言を言われてもおかしくない。
来てしまったことも内緒にしよう。
他の店でメンチカツは買えないか。帰りに2軒、肉屋を覗いてみたけれど、どちらも売っていなかった。
スーパーの惣菜売り場には売っていたけれど、土産になる物には見えなかった。今朝食べてしまったバナナと今夜呑む赤ワインだけを買った。
ワインを抱えて帰宅すると「今夜も呑むの?」と結局は小言を言われた。
"Stay Home Theater"、第5弾。今回も先月買った雑誌の特集「名画に学ぶお洒落」から娯楽大作を選択。特集の惹句は「イギリスの『品格』」。まさしく。過剰なまでに"British Taste"の作品だった。
まず、政府から独立した国際諜報機関、という設定が国際救助隊『サンダーバード』を思い出させるし、世間への隠れ蓑としている生業がサヴィル・ロウのテーラーというのもいかにも英国的。サヴィル・ロウはニューヨーク、マディソン・アヴェニューと並んで紳士服の聖地。生地から靴や傘まで扱うこの店は、まるで紳士服の「モリソン書庫」。
私自身は憧れるだけでビスポークでスーツを作ったことはない。だから整然とした店内を観ているだけでもワクワクしてくる。
当然、登場人物たちはかっちりとした英国風スーツを身にまとっている。特集は登場人物の着こなしと作品を次のように解説する。
構築的な肩と量感溢れる胸、絞ったウエストがもたらす美しいドレープなど、まさにブリティッシュスーツの真髄的一着であり、ある意味007よりずっと英国の伝統的紳士像を具現化している。
さらに加えてもいいだろう。スーツはダブルでサイドベント、レギュラーカラーのシャツ、タイは左下がりのレジメンタル、ウェリントンの眼鏡。
登場人物たちはこの堅いスーツのまま敵に対して立ち回る。武器になるのは傘、ライター、万年筆⋯⋯…とこれまた紳士の持ち物。最初に紹介された道具はすべて使われる。このあたり初期の007のようにスパイ映画の王道を外していない。
ほかにも、ギネス、シングルモルトウィスキー(ダルモア)、マティーニなど、酒も重要な小道具。紳士たる者の条件の第2は「正しいマティーニの作り方を知っていること」。
主人公が若くてストリートファッションからスーツに着替えたときの違和感は、むしろ笑う場面なのだろう。
こういう細部は人によって"snob"に映るに違いない。服好き、英国文化好きにはこの徹底した"snobbism"が愉快でならない。
もっともロンドンへは一度しか行ったことがないので、英国文化といっても図鑑や写真集のなかでしか知らない。
携帯電話のSIMカードで人間を凶暴にするという設定を見ていて、メトロン星人のタバコを思い出した。『ウルトラセブン』の話の巧みさにあらためて感心した。
結論として非常に満足した。外出自粛中にはちょうどよい、スカッとする作品だった。
さくいん:イギリス、マティーニ、ウルトラセブン
"Stay Home Theater", 第5弾。雑誌の特集「名画に学ぶお洒落」から。"Part I"は何度も見たことがある。"Part II"を見るのは初めて。
重い。重苦しい。
これほど暗い結末の映画は見たことがないような気がする。この重苦しさはどこから来るのか。そう考えてから考え直した。この結末を不快なほど重苦しいと感じるのは、今、そういう気持ちとは正反対の心境にいるからではないか。
かつてノワールと呼ばれるジャンルの小説や映画、ノンフィクションに耽溺していた時期もあった。その頃、自分自身が暗澹たる気持ちでいて、そういう気持ちを増幅してくれる作品をわざわざ探していた。
最近は比較的、穏やかな気持ちでいる。だから、この作品の結末に重苦しさと不快感さえ感じているのではないか。
もう一つ、この作品を見て切ない、やりきれない気持ちになる理由がある。それは、この物語が家族が崩壊・離散する物語だから。
家族のために頑張っているのにその努力が裏目に出て、かえって家族を不幸にしてしまう。そういうことはある。
家族のためを思って、夜遅くまで働いたり、遠い場所に単身赴任したり。その結果、家族と過ごす時間は失われ、家族の心は離れ絆は千切れてしまう。そんな家族を見たことがある。
コロナ禍のさなかにも、イタリアは三世帯家族が多いから感染が拡大したと言われた。イタリア系アメリカ人もイタリア系であることを誇りに思い、家族を大事にする。コルレオーネ家もそうだった。ヴィトーの時代は小さないざこざはあるにしても家族としては幸福だった。マイケルが家業を引き継いでから、何かが狂いはじめた。何がいけなかったのか。
彼の独善的な性格か。裏稼業をどうしても認めることができない妻のせいか。いろいろな見方ができると思う。その意味で、奥深い作品であることは間違いない。
筋を追うのに意識をとられて衣装の細部まで目が届かなかった。印象深いのは帽子。ポーラーハットと呼ばれる頂点が丸い、いわゆる山高帽。紳士の帽子というと中折れ帽子を想像しがちだが、マイケルはスーツと同じ色の山高帽で揃えている。
21世記に着こなすのはちょっと難しそう。三揃いの黒いスーツというスタイルも現代の、少なくとも街角では見かけない。限られた社交の場ではあるかもしれない。それだけ時代を感じさせる衣装になっている。
トム(Robert Duvall)は"Part I"に続いていい役所だし、演技もいい。参謀、という役はカッコいい。私のなかでは毛沢東に対する周恩来が理想的な参謀で秘書官でNo.2。
さくいん:アメリカ、ニューヨーク、暗黒、周恩来
"Stay Home Theater"、第6弾。前作とは打って変わってシリアスな社会派ドラマ。
正直に書くと、よくわからなかった。元々ウォーターゲート事件について本を読んだこともなく、予備知識に欠けていた。登場人物が多くて、誰がどれほど重要なのか、見ていて整理できなかった。映画は複雑な事件の要点を2時間程度にまとめたもの。そんな事件の概要でもよくわからないのだから、同時代に生きていたらもっと複雑怪奇に見えたのではないか。
あるいは、映画を鑑賞することが私はまだ下手なのかもしれない。
発表されたのはウォーターゲート事件から3年後だから、アメリカ人にとっては「いったい何が起きたのか」を知る興味津々の話題作だっただろう。
二人の記者の働きが大統領が辞職する事態にまで展開する。映画のような事件。ディープ・スロートという謎の人物もいて、実話であることが信じがたい。
現代の疑惑、トランプ大統領のロシア疑惑にしても安倍首相の「森友・加計・桜」疑惑にしても、断片的な情報は数え切れないくらい出てきても、決定的な証拠は出てこないで、結局うやむやになっている。本作の主人公のような気骨のある記者はいないのだろうか。
日本でも報道記者の奮起を願う。
雑誌の特集「名画に学ぶお洒落」は、編集主幹がアメリカン・トラッドの王道である、紺ブレにグレイのパンツと書いている。この人物の登場場面は多くない。それでも、英国風と反対の右下がりのブルックスブラザーズ風のストライプタイをしている人が多い。
ロバート・レッドフォードが着ているのは木綿のスーツだろうか。ダスティン・ホフマンもカジュアルな服装。二人ともいかにも社会部記者という感じ。
黒電話のダイアルを回す仕草がなつかしい。撮影は『刑事コロンボ』と同時代。ほの暗い画面や街を走るクルマを見ても70年代であることがよくわかる。
音楽は、”Something for Joey"(1977)と同じデイビッド・シャイア。これも70年代の大切な思い出。サスペンスなのに懐かしく感じたのはそのせいか。
さくいん:アメリカ、『刑事コロンボ』、『ジョーイ』、70年代
"Stay Home Theater"、第7弾。映画好きな人に最近の作品からおすすめを訊いて選んでくれた作品。
迫力のある作品だった。人間ドラマも作り込まれていて、楽しい作品だった。でも、人が亡くなる映画は苦手。実話だとなおさら。どんな美談でも辛い気持ちにな<る。
伝記映画は得てして主人公の死で終わる。この形式が好きでない。できれば最後に字幕でサラッと書き流してほしい。
人は誰でもいつかは死ぬ。でも、それは必ず映画の最後に語らなければならないものではない。
余韻を残す、という手法もあるだろう。昨日見た『大統領の陰謀』では、
結末は後日談としてタイプライターが叩いていた。この作品でも終幕に後日談が字幕で語られている。私は、レースの終わりが終幕でもよかったと思う。
愚痴めいたことを書いてきたけれど、楽しい場面もたくさんあった。レースの場面は終始、白熱していたし、夫婦の仲のよさも物語にほどよい甘みを加えていた。レースのあとのチームでのパーティーの場面がとてもよかった。
ああいう場面を私は好む、ということがわかってきた。
友情と信頼、団結して苦境に立ち向かうチームワーク、勝利後のパーティー、互いに交わす労いの言葉。
私がずっと望んでいたもの。何度転職しても、一度も手に入れることができなかったもの。どうしていつも"ひとり"になってしまうのだろう。秘密を抱えて隅に身を置いている今の職場では望むべくもない。仲間がいる人がうらやましい。
いい作品だったのに最後まで愚痴になってしまった。それだけ、物語のなかの人びとの絆が強く感じられたということだろう。
気分転換と絵本
昨日はダメな一日だったので今朝は寝坊した。昨日の散歩で撮った写真を掲げる。
大型連休明け、恐れていたとおり調子がよくない。ヘマをする、厳しいクレームを受ける、大事なことを忘れてる⋯⋯…やれやれ。
S先生からは「仕事が終わったらよかったことも悪かったことも一度すべて忘れる」という助言をもらったけれど、なかなかうまくはできない。ダメだった日はずるずると嫌な気分を引きずってしまいがち。
一つ、酒と惰眠以外で自分でも有効と思っている気分転換の方法がある。
気分が晴れないときは単純作業をするといい。過去の文章を校正・推敲したり、リンクを追加したり。この作業を続けていると、忘れたいことをだんだん忘れていく。
ブクログと『庭』の相互リンクも追加している。今は2003年の絵本評の書名にブクログに飛ぶリンクを貼っている。
2002年から2004年にかけては絵本をよく読んでいた。読み聞かせもしていたし、自分のためにも借りたり買ったりして読んでいた。
あの頃、お気に入りだった絵本作家。
Allen Say, Uri Schulevitz, Peter Sis, 小林豊、関谷敏隆、こみねゆら、八島太郎⋯⋯。
名前を挙げたらキリがない、出版から50年経っても読み継がれる、古典名作絵本の数々。
そうだ。絵本を読むのが好きだった。気分が沈み込んだとき、好きだった絵本をもう一度読んでみよう。上手に気分が変えられるかもしれない。
さっそく本棚から、Uri Shulevitz, "Treasure"を取り出した。
さくいん:S先生
自信持っていいんじゃない?
今日は月一回の診察日。4月はのんびりできたけれど、連休明けに不安と焦燥感が強まったことをS先生に伝えた。
上司が忙しく、性格も大雑把なので、不安から私が助言を求めても「そんな感じで大丈夫でしょ」と軽く返されることも不安の種と言った。
するとS先生からは意外な返答があった。
話を聞くかぎり、上司はあなたを評価して任せているみたいだから、もっと自信を持っていいんじゃない?
自信を持つ。そんなことはこの数年、考えたこともなかった。仕事の結果をみても、取り組み方を見てもとても自信が持てるレベルではない。
自己肯定感は前職を辞めてからずっと低いところで停滞したまま。
こんな状態でどうすれば自信が持てるというのか。
今日は少しモヤモヤが残る診察だった。
さくいん:S先生
一度、テレビで見た『カメラを止めるな!』を再見。以下ネタバレあり。一回目では気づかなった前半部の監督のカメラ目線に気づいて、これが伏線とわかった。
この作品を見ると、映画に魅せられた人たちが、どんな風に映画の世界に浸かり、映画を作っているのかがわかる。大型連休中、映画をたくさん見たのでそれがよくわかった。
あの作品はどんな雰囲気で、どんな細工を使って撮ったのか。いろいろ想像すると面白い。
コロナ禍の中で製作された『リモート大作戦』も面白かった。どこから次から次へとアイデアが浮かぶのか、しかもそれを文字だけでなく、音と絵を組み合わせて映像にしてしまうのだから、映画監督とはつくづく凄い才人と思う。
もう一つ、驚いたこと。『リモート大作戦』と『カメ止め』は出演者は同じなのに、見た目と性格がまったく変わっていたこと。携帯のカメラで撮影しているせいでプライベートな、素の表情に感じられるけれど、どの人も素ではなく、役を演じていた。俳優もまた恐ろしい才人と思わされた。
大型連休は「映画に目覚めた1週間」となったと言えそう。私にとっては"Stay Home"は大きな意味があった。
おうちでご馳走
一昨日、外食したつもりで精肉店のちょっと高いステーキ用の牛肉を奮発して購入、家で焼いて食べた。
買ったのは、大型連休中に行き損ねた例のメンチカツの店。名物には観光客が並ぶけど、対面式の精肉販売部の前には誰もいない。
牛肉専門店だけあって、美味しそうな肉が並んでいる。一晩、呑みに行ったつもりの予算でステーキ肉を買うことにした。
どれを買うか。一番高い肉はちょっと高過ぎる。三番目だと贅沢な感じが足りない。二番目に高い「和牛ステーキ肉」」を4枚買った。この選び方はレストランでワインを頼むときと同じ。
牛肉専門店で二番目に高いステーキ肉。これが思った以上に家族に好評だった。
外食には、もちろんプロの味付けや店の雰囲気など、外食ならではの楽しみがある。
昨夜は酒屋で買ったシャンパンを開け、デザートは近所で買ったショートケーキ。
ちょっとしたお祝いの日にふさわしいご馳走を堪能した。
外食がしづらい今、こんな"Stay Home"も楽しい。
写真は、一昨日、通院途中で寄り道した緑あふれる公園。池の水は抹茶色。
公園わきにある洋館のレストラン。今月で閉店らしい。20年くらい前に一度行ったことがある。もっと行っておけばよかった。
悲しみの表出
デジタルリマスターで再放送が始まった『未来少年コナン』、 第2話「旅立ち」を見た。
のこされ島でたった二人で暮らしていたおじいとコナン。
そのおじいが亡くなった。コナンは手当たり次第に岩を投げつけて悲しみを爆発させる。
悲しみはどう表されるか?
今回の主題を私はこう見た。
泣くことばかりが悲しみの表出ではない。
悲しみはときに怒りとして現れることがある。阪神大震災のとき、子どもが怒りをぶつけられるパンチングマシンを備えた施設があったと聞いたことがある。
涙や怒りで発散できるならいい。
心にじっと沈んだまま、長いあいだ表に出ない悲しみもある。
これはよくない。涙であれ怒りであれ、悲しみはできるだけ早く、心と身体の外へと投げ出した方がいい。そうしないと、心の底に沈殿した悲しみに心だけではなく身体までも支配されてしまう。
心身の外へ放り出しても悲しみは残る。そうだとしても、一度、風穴を開けて風通しをよくしておけば、心身が悲しみに蝕まれることはない。
今朝、今まで歩いたことのない路地を歩いていたらきれいなバラの生垣に出会った。
さくいん:『未来少年コナン』、悲しみ(悲嘆)
I'm Heading West
今日は朝の散歩が短かったので、仕事を終えてから、原っぱ公園と言われている広いところまで来た。
朝は昇る太陽を背にして歩く。いまは西に傾いた夕日に向かって歩いている。そう言えばCyndi Lauperに"I'm Heading West"という壮大な歌があった。私は大望もなく、とぼとぼ西へ向かって歩いている。
公園に着くと、ラジオ体操をしている人が多い朝と違い、朝よりも多くの人が各々、違う遊びに興じている。バドミントン、フリスビー、ミニテニス。
野球やサッカーを真剣に練習している星一徹・飛雄馬親子のような人たちもいる。私から見れば、とても楽しんでいるようには見えないけれど、本人たちはその厳しさを楽しんでいるのだろう。
10年くらい前、まだクルマに乗り外回りの営業をしていた頃、日が長い夏には早めに帰宅して、この公園へ来ては息子とキャッチボールをした。
あの頃の私たちと同じような親子連れが公園にはたくさんいた。
たくさんの楽しそうな親子連れを見ていたら、何だかしんみりしてしまった。
今、親子関係がうまく行っていないというわけではない。単純に「時は戻らない」ことに気づかされたから。
「あの頃」は⋯⋯。
やめよう、その先を言葉にするのは。せっかく心地よい散歩ができたのだから、のんびり風呂に入って早く寝てしまうのがいい。
さくいん:シンディ・ローパー
『エスパー魔美』を見ていた頃
最近、動画サイトで『エスパー魔美』を見ている。
『エスパー魔美』の放映は1987年から1989年。私の大学時代と重なる。この番組と日曜夕方の『ひみつのアッコちゃん』(堀江美都子版)は欠かさず見ていた。ちなみに、『アッコちゃん』のあとが今も続く長寿番組『ちびまる子ちゃん』。
『エスパー魔美』の魅力は何といっても一話完結の物語にある。敵と戦う話ではないし、『ちびまる子ちゃん』のような生活の一面を切り取ったエッセイ風でもない。
心がホッとなごむ人情噺や「道徳の教科書を読むくらいなら、このアニメを見ろ!」と言いたくなるような説話調の話。これが毎週続く。意味合いは少し違うけれど、情に訴える話が多いという点では『ブラック・ジャック』と共通するところがある。子ども向けの『はぐれ刑事純情派』と私は呼びたい。
『エスパー魔美』のもう一つの魅力はファッション。登場人物たちは夏には夏の、冬には冬の装いをしている。魔美はほとんど毎日(毎話)違う服を着ている。これはアニメ作品としては難易度が高いし、珍しいのではないか。
季節や場面にあった服装をしていることが物語にリアリティを与えていることは言うまでもない。
そして、三つ目の魅力。それは主人公、魔美ともう一人の主人公、高畑との関係にある。『エスパー魔美』はいわゆるラブコメではない。なぜなら、二人は物語の最初から両思いの関係にあるから。二人の関係がどうなるか、見ていてハラハラする話ではない。友人たちが羨むほど二人の関係はラブラブ。今日見た第104話「あぶないテレキネシス」ではとくにそうだった。こういうペアのキャラクターは珍しいのではないか。
ふと、コブラとレディーの関係を思い出したが、あれはもっと高い年齢向けだし、人間とアンドロイドの関係なので比較の対象にならない。
マンガをたくさん読んでいるわけではないので断言はできない。こういう二人組が主人公の作品もあるかもしれない。少なくとも私は知らないので、この二人の関係がとても爽やかで親密なのでとても羨ましい。
大学時代、学校にはあまり行かなかった。少人数のゼミ以外、マンモス大学の大教室での講義にもほとんど出席しなかった。理由は何よりも遠かったから。電車を乗り継いで2時間。だからサークルにも入らず、マンモス大学だったので、講義にも出なかった。
その代わり、家では今よりもずっと本を読んでいた。とりわけ、岸田秀や丸山圭三郎をよく読んでいた。それからゲームとテレビ。『ドラゴンクエスト Ⅱ』が発売されたのが1987年。以降、Ⅲ、Ⅳは学生時代にプレイした。
テレビでよく見ていたのが『エスパー魔美』。
『エスパー魔美』を欠かさずに見ていた、ということは、火曜日の夜7時にはほぼ毎週家にいた、ということ。
それくらい学校にも行かず、出かけもせずに家にいた。大学時代の4年間は言ってみれば「プチひきこもり」の期間だったような気がする。
そして今、自分の意志ではないとはいえ、「巣篭もり」の生活を送っている。昔、見ていたアニメ作品を見直して、一人で過ごす気楽さを噛みしてめている。
さくいん:『エスパー魔美』
『エスパー魔美』を見る
在宅勤務の仕事の合間に、息抜きで『エスパー魔美』を見ている。どれを見ても面白い。最近、見たエピソードを列挙しておく。
- 第22話 ウソ×ウソ=パニック
- 第68話 コンポコ夏物語
- 第69話 魔美のサマークッキング
- 第72話 感動しない名画
- 第78話 ノンちゃん失踪事件
- 第82話 パパの絵、最高!
- 第100話 微笑のロングシュート
- 第103話 日曜日のトリック
- 第111話 樹のざわめき
とくに面白いのは「ウソ×ウソ=パニック」。藤子マンガのキャラクターが続々と出てきてにぎやかな話。
しんみりするのは「樹のざわめき」。こういう温もりのある話は私のお気に入り。
悪い人を更生させたり、困っている人を助ける話も多い。この作品ではこの系統が一番多いのではないか。「感動しない名画」や「日曜日のトリック」は好例。
傑作は「パパの絵、最高!」。パパが絵描きで魔美はヌードモデルをしているという設定が違和感なく物語の要になっていて、結末は超能力でハッピーエンド。実際には、18歳以下のヌードモデルはありえないだろう。
前にも書いた通り、一番好きな話は「第88話 ターニングポイント」と「第46話 雪の降る街を」。
『カードキャプターさくら』は娘と共有できたけど、『エスパー魔美』の話に乗ってくれる相手は身近にいない。
だから、昨日も書いたように、この作品はいつも一人で見る。
写真は、魔美と高畑が飛んでいそうなすっきりとした五月晴れの空。
さくいん:『エスパー魔美』、『カードキャプターさくら』
越境の週末
都府県を越えた外出への自粛要請に逆らい、横浜の実家へ行ってみた。大型連休中は自粛していたので、帰省するのは一月ぶり。
一人暮らしの母はやはり退屈していたようで、買い物に出かけ、酒を呑み飯を食い、おしゃべりをして楽しい時間を過ごした。
土曜日は雨だったので、濡れずに行けるスーパーで買い物をした。
横浜に帰ってくると、魚を美味しく感じる。スーパーでも魚売り場が東京よりずっと広く、種類も多い。
都内ではほとんどがモーリタニア産のタコも逗子まで行くと地元産を売っている。
私のリクエストで夕飯は日本酒と刺身となった。
帰宅してもまだ早かったので、夕飯の前に録画してあった映画『クリスタル殺人事件』(The Mirror Crack'd, 1980)を見た。原作も読んでいないし、映画も初めて。ミス・マープルが謎解きをするまで真犯人がわからず、まんまとクリスティーにだまされてしまった。『日の名残り』でも見た、イギリスの田園風景がきれいだった。
往年の映画スターがたくさん出演していたので母も満足していたようだった。
「認知の歪み」のてんこ盛り
仕事でミスをしたりトラブルが起きたりすると、「何か悪いことをしたからなのかな」と思ってしまう。
この癖は小学生の頃から続いている。何か困ったことが起きた時、自分が何か悪いことをしたからではないか、と疑ってしまう。実際、思い当たる節があるから「認知の歪み」と説き伏せられても、自分の「感覚」は簡単には変えられない。
今日も仕事でいくつもミスがあった。そうすると、「週末、自粛要請に逆らったのがいけなかったのかな」と考えてしまう。週末の行動と仕事のあいだに合理的な関係はない。それでも、ミスの原因をただの不注意ではなく、因果応報のようにとらえてしまう。
そのうえ、何もかもが悪い方向へ進んでいくような不安な気持ちに傾いていく。
「認知の歪み」のてんこ盛り。
上の文章を書いたところで、ミスだと思っていたことが私の勘違いで問題にならないことがわかった。こういうときに「何かいいことをしたから、問題を回避できた」とは思わない。せいぜい、「運がよかった」と安堵するくらい。
一日を「運がいい」「悪いことをしたから悪いことが起きる」と二つに分けることが馬鹿げたこととはわかっている。頭ではわかっていることをどうして気持ちに反映できないのか。自分の心理を制御できないことがはがゆいし、情けない。
本格的に認知行動療法に取り組むべきだろうか。あまり大袈裟な活動はしたくない。
まずは「認知の歪み」が日常的に起きていることに気づくことから。
写真は朝の散歩、霧雨のなかで見つけたピンクのバラ。
恐怖から行動する性格
自分自身を観察してみると、行動の契機が恐怖、具体的には「怒られないように」という気持ちであることが多い。とくに仕事では。
これは前に書いたことがある気がするけど、もう一度書いておく。
これも、昨日書いた「認知の歪み」と同じように幼い頃からずっとそう。
「こうしたら相手は喜ぶだろうな」「こうしたら仕事の効率が上がるな、売上向上に貢献できるな」。そう思うことは滅多にない。
怒られませんように。反論されませんように。キレませんように。
そういう祈りに近い恐怖感が行動のきっかけになっていることが多い。
今日はこれまでに関わったことのない人と電話会議をした。上に書いたような不安で胸がいっぱいで、とても緊張した。
この思考パターンもやめたい。でも、変えられないまま、ずっと生きてきた。うつ病を発症してからこの傾向は強まったように思う。
病気は治せるかもしれない。性格は修正できるものだろうか。
今朝は雨が降っていたので散歩には出なかった。ベランダの雨滴を写そうと窓を開けたら消防車が何台も家の前に止まった。幸い、大ごとにはならなかった様子。
梅雨近づいて
昨日、一昨日とネガティブなことを書いている。なぜだろうか、と考えてみたら、「梅雨が近づいているから」という答えにたどり着いた。
梅雨が近づいているからユーウツになる
これも立派な「認知の歪み」、過度な一般化。
どうにかして、この呪縛から逃れられるないものだろうか。
今朝も雨が降っていたので散歩は休み。久しぶりにWii Fitでヨガをした。写真は葉の上に止まる朝露。
さくいん:うつ
真実はどこに
理解できないことが次々と起きている。
- 内閣は法解釈の変更だけで「お気に入り」の検事の定年を延長した
- その決済は文書に残っておらず、口頭で決済された
- 定年延長を後付けで正当化するために法案を国会に提出した
- 野党、検察OB、ネットなどで定年延長は激しい批判を浴びた
- 政府と与党は世論に負けて法案を先送りにした
- 例外で定年を延長された検事が賭け麻雀を新聞記者としていた
- 週刊誌の報道を受けて、検事は辞表を提出した
- 賭博という違法行為であるにもかかわらず「訓戒」の処分だけで辞職を認めた
- 政府と与党は検事総長に辞職の圧力をかけている
- 安倍総理は定年延長は法務省の提案だったと言い始めた
元はと言えば、官邸と安倍総理が「お気に入り」の検事を検事総長に据えるために強引に定年を延長したのが発端。
ここへきて責任を法務省と検察庁に押し付けているようにみえる。
辞職する黒川検事はどういうつもりだったのか。本当に自分の立場もわきまえずに賭博を続けていたのか。それとも、もう関わりたくないから辞職できる犯罪をわざとしたのか。
官邸側の意図はどうだろう。黒川氏を検事総長に据えることはできなくなった。つまり、もう用済みだから切り捨てたのか。それとも、寝耳に水だったのか。
何にしても、このタイミングでこんな辞め方をするのは理解に苦しむ。何かの力が背後で糸を操っているように思えてならない。
最初の一人になること
今回、多くのツィートが政府の利己的法案を先送りにさせた。
多くの人の行動は一人の行動からはじまる。
たとえば、米国の黒人公民権運動はローザ・パークス一人の行動から始まった。
だからデモクラシーの肝要はデモクラシーを守る運動に参加するかどうかではない。
デモクラシーを守る最初の一人になる覚悟があるか、という点にある。
正直なところ、臆病な私にはその自信がない。その勇気がない。
あとから運動に参加するとき、最初に声をあげた人がいることを忘れてはならない。
花が咲く前には蕾がある。
森林浴
天気がよいので洗濯と朝食を済ませてすぐに家を出た。池のある公園を目指して歩き出す。
公園まで30分。大きな公園の四隅を回って歩いた。公園はかなりの人出。これだけ天気がよければ、その上、非常事態宣言の解除も近いと期待していれば、多くの人が公園へ集まるのも当然か。写真は人気のないところで撮った。
歩いているあいだは何も考えなかった。緑を眺めて、木漏れ日を浴びて、黙々と歩いた。
身体が緑と木漏れ日を吸い込んでいる。その快感に身をゆだねて、ただ足を前に出して歩き続ける。ネガティブなこともポジティブなことも考えない。
5月ももう下旬。在宅勤務が始まってもうすぐ3ヶ月になる。すっかりこの暮らしに慣れてしまった。電車通勤が再開しても満員電車に慣れるまでにはまた3ヶ月くらいかかりそう。
帰り道、イタリアン・レストランでトマトとベーコンのペペロンチーノのランチ。ビールが喉にしみた。
2時間半、15,000歩の散策。快適なウォーキングだった。
脂肪燃焼にはまだ足りないけれど。
美々卯のこと
美々卯が関東の店舗を全店閉店すると聞いてショックを受けている。新型コロナウイルスのせいで休業が続いたため、店を維持できなくなったという。
父が単身赴任していた堺へ訪ねて行ったときに連れて行ってもらったのが「うどんすき」を最初に食べたとき。たぶん小学五年生のとき。
大人になってからも、家族でよく行った。外国から来た友人をもてなしたこともある。
両親と子どもを連れて奈良と大阪を旅行したときには本店に行った。
美々卯は父の思い出と重なる。
旧友と二人で酒を酌み交わしたこともある。
京橋も渋谷も新宿も横浜も、みんな行ったことがある。
非常事態宣言が解除されたら、真先に行きたい店の一つだった。
一店でも残すことはできなかったのか。
残念でならない。
今回ばかりはお店のページから写真を借りた。
さくいん:大阪、奈良
国家規模の災害対策
先週、米NPPRニュースで興味深いコメントを聞いた。
新型コロナウイルスの感染について、アメリカでは感染は拡大し、犠牲者が多い。一方で、アジア諸国、韓国、日本、台湾、ベトナムなどでは感染は何とか抑えられている。アメリカは感染拡大対策に失敗した、と言っても過言ではない。その理由の一つに、国家規模の災害を受けたことがないから、というのが興味深いコメントだった。
アジア諸国は第二次世界大戦で多くの犠牲者を出した。また、台風や地震をはじめとする自然災害も多い。そうした歴史や風土から、国家規模で災厄に対応するという意識が高い、ということがコメントの趣旨だった。
今回、日本で感染爆発しなかったのは政策のおかげではなく、国民の協力的な姿勢と指摘されている。大規模災害や、いわば国難と言われるような危機において、日本に住んでいる人々は理性的で順応性が高いと言うことはできるかもしれない。
アメリカは広い。気候や風土、人口密度も州や都市によって大きく異なる。こうした大国でパンデミックに対峙するのは易しいことではない。
報道を見ていると、連邦政府と州政府との連携がうまく行っていない。それは連邦政府が強力な対策を打とうとするほど、地域ごとの違いと齟齬が生まれるから。最初から州政府にある程度の采配を任せた方が良かったのではないか。
初動の遅れ、大統領選を意識した派手な政策、地域性を無視した包括的な対策、こうしたことが重なり、米国では被害が拡大したと思われる。
写真は公園で見つけた空っぽのベンチ。このモチーフは表紙をはじめとして何度も撮影している。
隔日出社モードへ
首都圏の非常事態宣言が解除された。
会社は来月3日から、まず隔日出社で通常業務を再開する。
正直に書けば、在宅勤務が終わるのは惜しい。満員電車での通勤もなく、午後にちょっと昼寝もできる今の環境に不満はない。出社したところで雑談をする相手もいないのだから、家にいても会社に行ってもそれは変わらない。
夜の店が再開するのはうれしい。高校時代の友人、大学時代の友人、昔働いていた会社の元同僚、それから⋯⋯。酒を酌み交わしたい人は何人かいる。
行きたいお店もある。
行末揃え
第六部の文章は、デスクトップのChromeで見ると行末が文節か音節で揃えてある。
アクセス解析によれば、私のサイトの閲覧者のほとんどはスマホで見ている。
だからほとんどの人は気づきもしない、意味のない努力と工夫と知りつつ、行末を揃える作業を続けている。
最近、第五部の文章も、Chromeで見栄えがよくなるように推敲をはじめた。
気づかれなくてもいい。元々、文章を書くことが一人遊びだから。
そう書いていることが、すでに気づいてほしいという胸の声ではある。
5月も下旬を過ぎた。6月も近い。散歩の途中で紫陽花の蕾を見るようになった。
毎年6月から7月中旬まで調子が悪い。その予感は余計な自己暗示かもしれない。
今年はダウンサイドに落ちないように少し強めに「前向き」を意識してみる。
写真はビニール傘に降った雨のしずく。
継続する在宅勤務
緊急事態宣言の解除を受けて、会社から文書が配信された。一読して6月から隔日出社かと思ったが、よく読んでみると「基本は在宅勤務」とある。「どうしても必要なときだけ出社を許可する」ともある。「安全第一」を掲げている会社だけあって、慎重の上に慎重な対応。
つまり、在宅勤務が当面継続される。これは正直、ありがたい。
できることなら恒久的に週に数日、在宅勤務を続けたい。1日なら水曜日。
この3ヶ月で私がしている業務は会社に出社しなくてもこなせることが証明されている。
時間をかけて出社したところでモチベーションが上がるわけでもなく、昇給する可能性もない。家でのんびり働きたい。
会社員の愚痴
会社員らしい愚痴を一つ。一昨日のこと。
難癖をつけるのはいつも同じ人。
最初にコメントを依頼したときには返信なし。
「ではこれで進めます」とメールすると突然後戻りしなければならない提案を出してくる。しっかりやってください、という嫌味な励ましと一緒に。
こういうことをさらりと言える会社員は幸せに思う。
無職のときは仕事の愚痴さえ言えなかった。
とはいえ一昨日は腹が立ったので、気を落ち着かせるために500mlの缶ビールを呑んだ。
5月ももう終わり。紫陽花も色づいてきた。
非常事態宣言解除の週末
非常事態宣言が解除された。都県をまたぐ移動への自粛要請に逆らい、母の様子を伺いに横浜へ帰省した。
土曜日の午後、海を見るために電車とバスを乗り継ぎ葉山へ行った。残念ながら防波堤はまだ閉鎖中。葉山マリーナの脇をバス通りまで戻り、鐙摺港から海を眺めた。
薄曇りで鮮やかな写真は撮れなかったけれど、汐風を浴びて快いひとときを過ごした。
夕食はいつものイタリアン。予約しておいて正解だった。17時半の開店と同時に入ると、すべてのテーブルに"Reserved"のカード。宣言解除と同時に常連客がこぞって来るらしい。
地元のタコと真鯛のカルパッチョ、イカ墨のパスタ、子羊のグリル。白ワイン1本。
初めてイカ墨のパスタを食べた。甘味があって美味しかった。
ビールを飲みながら注文すると「そんなに食べられますか」と店員に呆れられた。きれいにたいらげて帰宅。「ブラタモリ」を見ながらビールを呑みなおした。
この週末、映画『何者』と『翔んで埼玉』を見た。朝ドラ『エール』の1週間まとめも見たので、二階堂ふみばかり見ていたことになる。
さくいん:葉山、逗子、二階堂ふみ