善福寺公園

朝井リョウの文章は日経新聞夕刊のコラム「プロムナード」で読んでいた。感想もちょっと書いた。とても面白かったので、その時から単行本になることを待っていたら、いつの間にかハードカバーで出版されていて、今回、文庫本でも出版された。待望していたのに、単行本が出ていたことも知らなかった。

軽妙洒脱とはまさにこういう文章のことを言うのだろう。クスクス笑いながら、ときには抱腹絶倒しながら読み終えた。

とくに眼科医とのエピソードは何度読んでも笑える。

それだけではない。「得るものナシ」と言いながら、読んでいると考えさせられることもある。笑わせながら考えさせる文章。こういう文章はなかなか書けるものではない。


考えさせられたこと。

著者はとてもナイーブな性格をしている。いつも考えすぎたり、心配しすぎたりしている。そう言うところに私は共感する。それどころか、「それはさすがに考え過ぎだろう」とツッコミたくなるところもある。例えば「なぜこの小説を書いたのですか」という問いが苦手な理由を次のように書いている。

「(あなたの作品より価値のあるものを書く作家はこの世界に何万人とおり、さらに小説以外にも毎日多くの面白い書籍が出版されている中、わざわざこの一冊を作るために大切な資源を利用してまで)なぜこの小説を書いたのですか」と問われているような気がするからである。
(「なぜ、『なぜ』と訊くのか」)

これはいくらなんでも考えすぎだろう。

他にもちょっと病的ではないか、認知行動療法をした方がいいのではないか、と思われるような考え過ぎや心配性が何度も書かれている。

不安と焦燥感のせいでうつ病と診断されている私から見ても、極度の心配性である著者は病気ではないのだろうか。言葉を換えれば、「ただの考え過ぎ」と「病的な考え過ぎ」とはどこで線引きされるものなのだろうか。

もっとも、朝井には心配どころか、よく考えもしないで行動する一面もある。そういう面と心配性の面でほどよくバランスが取れているから病気にはならないのかもしれない。そして、私はそのバランスが不安定だから病気なのかもしれない。


夕刊で週一回読んでいた朝井リョウの文章をまとめて読んでみると、一つの思考パターンがあることに気づいた。それは、臆病や謙遜と自己分析している性格が、実は、高慢、エゴ、高いプライドの裏返しではないかと疑うこと。この自己分析のパターンは興味深い。共感するところがある。

自分は、人見知りという自己申告により「他人との距離を上手に測れない不器用で奥ゆかしいワタシ」を演出しているだけのただただ傲慢な人間なのだ、と。
(「大人のための友達論」)

新聞で読んだとき、この言葉には目から鱗が落ちたように感じた。自分のことを言い当てられているようだった。

同時代の作家で共感する人は多くない。こういう自己分析や人間観察をもっとエッセイで読んでみたい。彼ならもっと深いところまで行けるだろう。


共感するということは同じように感じるということではあっても、その表現はまるで違う。コラムで取り上げられているテーマで私が書いたら、もっともっと暗くて湿っぽい文章になるだろう。結語も否定的になりがち。

朝井リョウの文体は明るくてテンポがいい。そしていつも前向き。ここが私の文章と若き直木賞作家の文章との大きな違い。読んで笑って、爽快感が残るのも彼の前向きな姿勢によるものが大きい。

こういう文章が書けたらいいな、さぞかし楽しいだろうな、と思う。でも実際のところはどうなのだろう。笑える文章だからといって笑いながら書いているとは限らない。

ギャグ漫画を描く漫画家は苦しみながら笑わせる作品を描いていると聞いたことがある。

朝井も「読んでも得るものがないような」「誰もが思わず笑ってしまうような」文章を書くために眉間にシワを寄せて苦闘しているかもしれない。そこまでしていなくても、さまざまな工夫を凝らしていることは間違いない。

タイトル、書き出し、登場人物の描写、会話文のリズム、結語などなど。笑わせるための細工がいたるところに仕掛けてある。もちろん、読者には気づかれないように細工は上手に隠してある。

本の帯には「読んで得るもの特にナシ!」とある。確かに中身は他愛のない話題や著者の「スットコドッコイ」なドジ話が盛り沢山ではある。でも、本書を読んでいると「楽しい唯一無二の読書体験」を得られることは間違いない。


さくいん:朝井リョウ