"Stay Home Theater"、第4弾。小説のストーリーが面白かったので、映画も観てみた。音楽を題材にした小説だから、音楽でも楽しんでみたかったし、実際の演奏がどのように映像作品に落とし込まれるかという点にも興味があった。
観てよかった。いい作品だった。
登場人物を絞ったのは奏功している。映像作品は文字だけの小説に比べて、多くの情報量を詰め込めるけれど、詰め込み過ぎると散漫になる。
原作が長編の場合、削らなければならないエピソードや人物が出てくる。映画化は減算の作業ということがよくわかった。
裏を返せば、小説はどこまでも細部を書き込むことができる。映画を見てから小説の方の出来栄えを見直した。音がしなくても、音楽が聴こえる小説だった。
出てこない人物は、奏、塵の父親、綿貫先生、華道の先生⋯⋯…。
小説ではたくさんの人物が登場するが、バランスよく登場し、性格やコンクールに対する思いも細やかに書かれていた。恩田陸の筆力には感心する。
クラシック音楽の素養がまったくないので"現物"の音楽が流れる映画よりも"言葉"の表現で楽しむ小説の方が空想が広がった気がする。
一方、映画では栄伝亜夜の葛藤と復活に物語の焦点を絞った。小説のなかでも印象に残る場面を拾い上げ、丁寧に映像化している。その結果、メリハリのある作品になっている。
亜夜に焦点を絞ると、物語は母親と師との死別を乗り越えた"PTG story"として見ることもできるかもしれない。でも、この作品は、とくに小説の方はそこに重きをおかず、若者たちの切磋琢磨を軸にした。そのおかげで安易な"soap drama"にならずに「青春群像小説」になりえた。
ただ、登場人物の関係や亜夜の葛藤が映画を先に観た人にどれだけ伝わるか、小説を先に読んでしまった私にはわからない。マサルの位置が曖昧で弱いかもしれない。
小説ではマサルと塵、二人の演奏に後押しされて亜夜は「進化」していく。しかもマサルは技術でも音楽性でもすでに超一流。だからあの結末になった。映画ではその役割を塵一人に寄せているため、マサルの影が薄い。
人物以外にも、映画では削られている場面やエピソードも多い。
そもそも、「音楽を広いところへ連れ出す」という原作の鍵になるメッセージが「世界が鳴っている」に変わっている。この時点で映画は小説とは別の作品と見るべきかもしれない。
個人的には、小説のなかで一番印象に残った場面ーー見知らぬ間柄のはずの明石と亜夜の二人が抱擁して号泣する場面ーーがなかったので残念だった。
本選でマサルが演奏しているあいだ、「客席で観てる」と言ったはずの亜夜はロビーで液晶画面で演奏を見ている。なぜだろう。そこへ明石が現れる。彼が「ピアノが好きだ」と素直に発した言葉を受けて亜夜は「私にはできない」と涙を流す。そして、彼女は音楽から「逃亡」しようとする。この場面は小説にはない。小説では、亜夜は二人の天才の演奏に刺激を受けながら、後退りすることなく一歩ずつ前へ進んでいく。
映画では、亜夜が死別という逆境や音楽界への再挑戦というプレッシャーに、一度は負けそうになりながらも打ち克つ姿を映したかったのだろう。小説を読んでから観ると、亜夜が足を止めてしまうことに戸惑う。一日一日と彼女は進化するし、それは三枝子の台詞で読者にも伝えられているから。
出会ったばかりの間柄の薄い他人の前で号泣してしまう場面で、亜夜が思わず明石の胸にすがりついてしまう、という展開ではどうだっただろう。
あなたなら大丈夫、きっとできる
そんな台詞を明石に言ってもらいたかった。その言葉を聞いて、涙を拭いステージへ向かう亜夜⋯⋯…。
まったく勝手に別の展開を妄想してしまった。