土を掘る 烏兎の庭 第三部
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9.7.13

優しい音、三輪裕子、小峰書店、2010

夜のピクニック(2004)、恩田陸、新潮文庫、2006

みずうみ(1849)、Hans Theodor Woldsen Storm、関泰祐訳、岩波文庫、1979

時をかける少女、大林宣彦監督、 角川エンタテインメント、2007

時をかける少女、細田守監督、 角川エンタテインメント、2007

初恋――HATSUKOI、角松敏生、T's 12 INCHES、BMGビクター、1994


ここにあげた作品の共通点は、初恋、それから小さくカッコつきで「青春」。

それからもう一つ、秘密、ということも加えておきたい。「秘密」は『庭』をはじめてから繰り返し考えている概念。これらの作品に秘密が描かれているというより、私がそこにやや無理やりに秘密を見出そうとしているかもしれない。私は自分で作った枠組みを通して本を読むようになりすぎている。とはいえ、そんな自己流の枠組みや先入観を破壊するような本との出会いによって私なりの「秘密」の概念が作られてきたことも確か。


『優しい音』はどこで知ったのか、記録がない。でも、数か月前から書名だけは頭に残っていて読みたいと思って探していた。

『優しい音』はさわやかな青春物語。中学校でのいじめを題材にしてはいるけれども、暴力的な場面はないし、ハッピーエンドだし、結局のところ悪い子は一人もでてこない。

主人公の男子生徒は沈着冷静。こんな中学生いるのかな、と思うくらい。物語もすこし穿った見方をすれば出来過ぎにもみえる。でも、読み物としてはよくできている。舞台がありきたりで登場人物が非凡なほうが、人物が凡庸で類型的でありながら大袈裟な舞台だけを据えた物語よりはずっとおもしろい。

こんな中学生活だったらよかったなと思わせただけでも、私にとっては傑作と言える。

中学生の恋物語というとスタジオジブリの『耳をすませば』を思い出す。ストーリーは『優しい音』と通じるところもある。この作品でも、男子生徒のほうが怖いくらい大人びていた。

同じスタジオジブリ作品では『海が聞こえる』のほうが舞台もありふれていたうえ、登場人物も特別なところはなかった。ありふれた背景、どこにでもいそうな人物とはいっても『海が聞こえる』はありきたりな作品ではない。誰もが持っていそうな経験や感情をていねいに描くことで見るも者の共感を誘う。こういう作品が一番心に残る。


初恋について

初恋はさわやか。甘酸っぱい、と形容されることも少なくない。でも、初恋には残酷な一面もある。その残酷さは、月の裏側のように、ふつうは見ることができない。

初恋がさわやかなのは一途だから。つまり、一方的な思いなので、さわやかに見える。だから、後になっても初恋は甘美な思い出にしか見えない。

初恋の相手は自分にとって、初めて知る「美」であり、また最高の「美」でもある。言葉を換えれば、初恋の相手は偶像(アイドル)とも言える。

初恋の相手に話しかけられないまま、ついその隣にいる子に話しかけて、周囲から、そちら子を好きなのかと誤解されるようなことはよくある。

「偶像」は生身の人間ではない。己の中で作り上げた創造の産物に過ぎない。それゆえ、卑近な例では、小便をするような極めて「人間」的な行動は知りたくない。本人に話しかけられないことも、実は本人の真の姿を知りたくないから、とも言える。

人間を「偶像」として愛している限り、人間どおしの愛に育つことはない。いわゆる歌手やタレントの「アイドル」の場合、人間的な面を知ることはほとんどないから、安心して「偶像」への片想いができる。


余談。

福永武彦の小説『草の花』の登場人物、汐見茂思は生身の人間に「美」を見いだそうとした。相手は汐見に生きている人間として見られ、触れられ、愛されることを望んだ。

汐見は、人間の愛の世界に踏み出すことをためらい、彼の想いは「偶像」への恋のまま終わった。


初恋には独善的な面もある。なぜなら、自分は思いを寄せる相手しか目に入らないから。自分に思いを寄せている人がいたとしても、その姿はまったく見えていない。

それは初恋だけに言えることではない。すべての恋愛がそういう傾向をもっているのかもしれない。初恋の場合は、とくに自分の思いばかりが強いだけ周囲が見えない、自分を見つめている視線にさえ気づかないような無神経さがある。

初恋をしているとき、自分が残酷に誰かを無視していることには気づかない。それに気づいたとき、初恋はどうなるだろう?

『みずうみ』では初恋の渦中にあり、相手が目の前にいるのに、その視線に主人公は気づかない。恋よりも大きな野心をもっていたからだろうか。そういうことも青春時代にはよくある。兄妹のように当たり前の存在だったので、独り占めしておこうとは思わなかったのかもしれない。彼女の思いを見過ごしていたことに気付いた時には、すでに主人公は年老いている。

この物語は、美しい、とまでは言わないまでも、切ない青春の物語と言えるだろうか。私には初恋の裏側を見てしまった老人の悲劇に見える。甘酸っぱいとかほろ苦いという言葉より、苦々しい味を感じる。

この小説はどこで知ったのか。日経新聞のコラムだったような気がするけれど、誰の文章だったかは思い出せない。読み終えて、オフコースの「老人のつぶやき」という歌を思い出した。


友情について

友情は“Give & Take”と言う人がいる。私はそう思わない。友情とは“Give & Give”ではないか。この人のためなら何でもしよう。そう思える相手が親友と呼べるのではないか。相手から学ぶ、ということはあるかもしれない。でも、そういうことにTakeという言葉は、少なくとも私はあてない。

「友情とはGive & Give」。そう教えてくれたのは、山口瞳

実際、「友情とはギヴ・アンド・テイクだ」と私に言った人がいた。私は、どうしてもその言葉が理解できず、結局、彼とは絶交してしまった。つきあいをすぐに切ってしまうのは数えきれない私の悪い癖の一つ。


『夜のピクニック』は『優しい音』よりもさらにさわやかな物語。この作品は、中学生になって次々と小説を読みはじめた娘に教えてもらった。

『夜のピクニック』は、秘密についての小説としても読むこともできる。

青春時代には、誰でも、何かしらの秘密をもっている。“秘密”という言葉が強ければ、もうすこしやわらかく、一般的な言葉では劣等感と言えばいいか。

主人公の友人は、ずっと秘密を打ち明けらずにいたことを悔しく思う。こういうところが「青春」だな、と思う。

大人になると、秘密を打ち明けるという場面が少なく、ほとんどなくなる。人間関係は広く浅くなり、打算的とまで言わないにしても、場面場面でしかつきあわなくなる。職場の同僚とか、近所のつきあいとか。古くからの友人であっても、今さら秘密を打ち明けるという機会はなくなる。

秘密とは、もちろん、隠しておかなければいけないこと。

秘密を抱えて生きることになれていくことは必ずしも陰気になることではない。踏み込まれたくない場所がはっきりしてくれば、そこを片足とびで跳ねるように交際すればいい。大人になるということはそういうことに慣れていくこと、ではないだろうか。ありていに言えば、世渡り上手で、ほとほどに社交的になること。


『優しい音』と『夜のピクニック』。ふだん小説を読まず、新しい作家はなおさら読まない私には新鮮な読書体験だった。でも、二つの小説では、ちょっと気になることもあった。

会話文が多いのは、気にならない。気になるのは、地の文(ナレーション)と会話文は分けられていても、と登場人物の独白と物語を外から語るナレーションがうまく切り分けられていないこと。

『優しい音』では「母ったら」という主人公の独白がある。そんなふうに心のなかでつぶやく人は少ないだろう。母さんったら、そうでなければ、ママったら、だろう。

『夜のピクニック』でも、同じように、男の子が「姉はどう思うだろう」と心のなかでつぶやいている。姉について心をめぐらすとき、「姉は」とつぶやく人がいるだろうか。

こういうところが校正されずに出版されているということは、書き手も、編集者も、それから読み手も、あまり気にしていないということなのだろうか。


初恋と青春について書いてきた勢いで、ずっと感想を書けずにいたアニメ『時をかける少女』について書いておく

映画版『時をかける少女』のいいところは、小さな出来事からただの幼馴染だった五郎の存在を確かめていくところ。

アニメ版では、結局、何が言いたいのか、よくわからなかった。

死んでしまった友だちは時間を戻したら生き返った、つまり、なかったことにした。

それでいいのか、彼女のなかではそれで片づけられるのか?

この作品には何かしっくりこない後味が残っているで、あらためて見ようとは思わない。それでも、この作品の主題歌、奥華子が歌う「ガーネット」は好きなのでよく聴く。


最後に、『優しい音』に話を戻す。

あえて現実にはいそうにない人物像が物語を魅力的にしていることは間違いない。もっとも、ほんとうにこんな中学生がいないのか、私にはわからない。あくまで私が知っている範囲でのこと。もっと言えば、私が彼らのように異性を落ち着いてみることができる中学生ではなかったから、余計に彼らが特別大人びているようにみえるのだろう。

自分の中学時代はどんな性格だったろうか。私はといえば、友人の恋を伝言する雫にうっかり自分のほうが彼女を好きなことを打ち明けてしまった、そそっかしい野球部員の少年のようだった。



uto_midoriXyahoo.co.jp