六義園
10/2/2020/FRI
『半沢直樹』について

このドラマは見ているだけで疲れるので、初回以降、見ていなかった。翌日仕事なので、いつも通り、9時には自室に入って横になった。

ところが、家族が大いに盛り上がっているので、皆の会話に入るために最終話を見ることにした。

怒声を浴びせあうことが日常の職場とはどういうところだろう。少なくとも私はそういう職場では働きたくない。

「働きたくない」というよりも、精神的に耐えることができず、そういう場所では今はもう「働けない」だろう。あの雰囲気はすでに十分に味わった。

パワハラ、という言葉は、どれだけ罵声や人格攻撃に溢れていても、あのドラマのなかにはないのだろう。

思えば、このドラマを見たくなかった理由は、予期せぬフラッシュバックがあったため。最終話も、見終わって大きな疲労感が残った。爽快感や「半沢ロス」を感じられる人がうらやましい。

それにしても、ドラマでは勧善懲悪が大人気なのに、現実世界では悪党どもがいつまでも居座っていても、皆、平気でいられるのはどういうわけだろう。

「ドラマはドラマ、現実は現実」。皆、上手に分けて見ているのかもしれない。


10/3/2020/SAT
変調する時間の感覚
朝のはらっぱ

最近、時間の感覚がおかしい。

十代だった70年代末から80年代のことを思い出すことが増えた。しかも鮮やかな彩色で。「あの頃」がとても近く感じられる。

ところが、2000年以降のことの記憶が薄い。テレビで音楽番組を見ても、2000年以降の音楽は「大ヒット」と言われても知らない曲が多い。昔の歌はよく覚えているのに。

感性が鈍くなっているのだろうか。

84歳の母はお酒を呑んで楽しい気分になると、きまって短大時代と3年間、丸の内でOLをしていた頃の話をする。よほど楽しかったのだろう。楽しかった思い出を楽しそうに話す。

私の場合は少し違う。思い出すのは、十代の頃の苦い思い出や辛い出来事ばかり。楽しいこともあったはずなのに、努めて思い出そうとしなければ思い出せない。苦い思い出や辛い出来事の記憶は、不意に前触れもなく脳裏に浮かんでくる。

2002年以降は『庭』を書いている。書いた文章は自分しか読まない日記とは違うけれど、その時々の出来事は書いてある。読み返してみると、ようやくそのときの気持ちを思い出す。でも、その風景は色鮮やかなものではない。自分が自分ではなかったように感じる。まるで他人の日記を読んでいるように思うこともある。思い出は希薄でぼんやりしている。

ブリュッセルロサンゼルスを家族で旅行するような大きな出来事もあったのに、細かいことは忘れている。家族が当時の思い出を話しても、忘れているエピソードが多い。すると、自分はそこにいなかったような気がする。それくらい、2000年以降の記憶は薄い。

仕事でも、もう今の会社に4年近くいるのに、「2年前のあの件は」と訊かれても思い出せないことが多い。

確かに、髪は薄くなるし、おなかも出てきた。自分の体から加齢臭が出ている気もする。

でも、加齢のせいだけでもないような気がする。

よく考えてみると、十代の記憶がよみがえる、と言っても、それは事実をありのままに思い出しているわけではない。加工された、あちこちに誇張のある記憶を選んでいるだけのような気がする。言葉を換えれば、現在の不遇の遠因が十代の頃にあったように自分を納得させるために、過去を創り出しているようにも思える。それは認知の歪みであることはもちろん承知している。

これはどうしたことだろうか。これが「老いる」ということだろうか。いまの生活に緊張感がないせいだろうか。それとも、これも病気なのだろうか。


写真は朝のはらっぱ。朝の散歩は続いている。

さくいん:70年代80年代


10/5/2020/MON
はじめてのギリシア神話、尾高薫文、堀川理万子絵、徳間書店、2014

『神曲』を読みながら、ギリシア・ローマの神話の知識があれば、もっと楽しく深く読むことができるだろうと考えた。

そこで、岩波文庫『ギリシャ神話集』(ヒューギヌス)を買って読みはじめた。ところが、とても読みづらい。

元の本が中世の本で、訳文は原典に忠実にあろうとしたのか、神々の名前が読みにくい。ポセイダーオーン、デーメーテールといった調子。

しばらくは我慢してがんばってみたものの、どうしても読み進められないので、あきらめてしまった。どうやらこの本は、ギリシア神話に馴染んだ人がさらに深く知るために手に取る本だったらしい。本には相性というものがある。合わない本を無理に読む必要はない。

次に思いついたのは、図書館の児童書のコーナーで子ども向けの絵本を探すこと。これは良案だった。

見つけた絵本は読みやすいだけではなく、ギリシア神話の要点を押さえていて、基礎知識を得たい私にはお誂えだった。

この絵本は挿絵も美しい。パンドラの壺に洪水を巻き起こすノトスとポセイトン、どの絵も素朴な表現で神話世界の想像を助けてくれる。牛を引き連れるヘルメスはとてもかわいい。

そして、文章はキビキビしていて読みやすく、何より話がどれも面白い。恥ずかしながら、ゼウスとかヘルメスとか名前は知っていても、物語は何も知らなかった。その分、いま読むと知ってる名前がつながって楽しいし、知識欲も満たされる。

子ども時代、自動車や飛行機の図鑑ばかり見ていて、物語の本は嫌いだった。だからギリシア神話についても、言葉は知っていても物語には疎かった。

いまは五十の手習のつもりで、博物館で見た彫像を思い出しながら、神話の世界を楽しんでいる。


10/6/2020/TUE
スワルト・ヴィンヴァルスの思い出

もう30年近くの昔の話。まだ新入社員だった頃。会社のS先輩にスワルト・ヴィンヴァルスという酒をすすめられた、いや、呑まされた。場所は、今はもうない宮下公園の横にあったのんべえ横丁。ハシゴのように細くて急な階段を上がったところにある、カウンターだけの狭いバー。もう終電は終わっている時間だった。

冷凍庫から出されたボトルからはドライアイスのような煙が出ていた。リキュールの中でもアルコール度の高いアクアヴィット。バーテンダーは70度と言っていた。

その時は「シュワルツ・ヴィンヴァルス」と聴こえたのでドイツの酒と思っていた。どうやら北欧産らしい。

一口で呑め、と言われてゴクリと呑んだ。その店に行く前にも、千鳥足になるほど呑んでいたので、一杯で頭がふらふらになった。

いま、探してみると「スワルト・ヴィンヴァルス」という酒はあるけれど70度ではない。あれはバーテンダーの誇張だったのだろうか。

香りはよかった。あの夜のことは、酔っていたにもかかわらず、鮮烈な記憶として心に刻まれている。

もう一度、あの強烈なスワルト・ヴィンヴァルスを呑みたい。あの酒を呑んだら、S先輩が夢枕に立つかもしれないから


10/7/2020/WED
伝説のコンサート “山口百恵 1980.10.5 日本武道館”、NHK BS
山口百恵 1980.10.5 日本武道館

歌手・山口百恵の最後の歌唱曲、「さよならの向こう側」の映像は見た記憶がある。コンサート全部を見るのは初めて。

圧倒的な存在感と歌唱力。

大かがりなセットもなく、衣装も2回しか着替えない。聴いていて鳥肌が立つような、ほぼ「歌だけ」で魅せるコンサートだった。

つい最近読んだ『中古典のすすめ』(斎藤美奈子)でも、山口百恵が"自分で”書いた自伝『蒼い時』について「自身が求められてきた(アイドルという)像に敢然と立ち向かう姿勢はアグレッシブというほかない」と高い評価を与えていた。確かに彼女のステージはアイドルを超えた一人のアーティストだった。

驚いたのは「I CAME FROM 横須賀」を歌ったこと。京急線の駅名を横須賀から品川まで並べる(すべてではない)この歌はあまり知られていない曲と思っていた。

「横須賀サンセット・サンライズ」と合わせて歌っていたので、彼女には思い入れのある歌だったのかもしれない。歌のあと、しばらく「故郷・横須賀」についての語りもあった。

選曲も硬軟まんべんなくあって、よい構成だった。

山口百恵は英語の発音がいい。thもfも自然。

最後の2曲、涙を堪えて、歌い続けた姿に山口百恵の歌手としてのプライドを見た。


さくいん:山口百恵京急線


10/8/2020/THU
MENS'S CLUBモノ・マガジン69
雑誌5冊

久しぶりに大きな図書館へ行った。家の近所の図書館に置いていない雑誌をまとめて5冊、借りてきた。

ヒマなときはこういう雑誌を借りてきて家で眺めて過ごす。

『MEN'S CLUB』は服に興味を持ちはじめた中学生の頃から社会人になるまで、ほぼ毎月買っていた。2月号と11月号の「アイビー特集」は必ず。

アメリカのファッションだけではなく、アメリカの全てに憧れていた頃。対象年齢よりも歳をとってしまったので今は立ち読みもしない。今回借りたのは、創刊65周年記念号だったから。紺ブレとストライプタイに憧れていた頃を思い出す。入学できるわけもないのに、ハーヴァード大学を見に行ったことも。

大学生の時、スナップ写真のコーナー「街アイ」(街のアイビー・リーガーズ)に撮られて掲載されたこともある。国立競技場にライスボウルを観に行ったとき。

乗り物は何でも好きなので、乗り物の図鑑や乗り物を特集した雑誌をよく読む。自分ではクルマもバイクも持っていない。そういう余裕がないので、図書館で図鑑や雑誌を借りてきて眺める。それだけで満足できる。

実際には行動に移せないタイプ。空想で満足するタイプと言い換えておく。


さくいん:アメリカ


10/9/2020/FRI
秋の休日

金曜日、朝。

昨日は午後、在宅勤務のまま、会社を休んだ。毎年、この時期に来る「休みたい日」。

水曜日は業務が立て込んでほとんどパニックになった。何とか切り抜けたものの、心がすり減ってしまい、「明日はもうダメ」という気分で1日が終わった。

一日休むと仕事が溜まる。それも嫌なので、木曜日と今日、午後休にした。今日は昼から帰省する。

この「休みたい」気分とはいったい何だろう。「心がすり減った」「いっぱいいっぱい」「電池切れ」「ストレス過剰」。こういう表現で表せる心身の状態。毎年、この時期に訪れるのも不思議でならない。これも病気のせいなのか。

何にしても、そういう状態の時に自由に休みを取れる雰囲気はありがたい。

午後は2時間ほど寝ていた。起きてもしたいことが思いつかないので、しばらく布団の中でじっとしていた。そんな時間を過ごせるのも「秋の休日」の特徴。

起き上がり、結局、するのは「庭いじり」。

過去に書いた文章を読み返して、推敲したり校正したり。索引へのリンクを追加したり。行末を文節で区切ることが最も重要な作業。

行末を文節で揃えることは簡単ではない。しばらくするとやる気をなくす。やる気をなくしたら止める。好きでしていることだから、始めるのも止めるのも自分の自由。

いつの間にか、いつもなら終業している時間になっていた。

この作業は心を落ち着かせる。


さくいん:うつ


10/10/2020/SAT
Assertion

他人の間違いを指摘したり、謝罪を要求することができない。何も言えず、つい泣き寝入りしてしまう。そうでなければ、「実は自分のせいなのかも」とあらぬ方向に迷いこむ。

一言で言えば、「アサーティブ・コミュニケーション」ができない。昔はこんなにオドオドしていなかったように思う。

就労移行支援事業所で、"Assertive Communication"を教わった。「自分の主張や要求を上手に相手に伝える方法」。これが出来ない。

逆ギレされないか
本当は自分に非があるのではないか(実際、これが多い)
気まずい雰囲気になるのではないか

そういう不安から、自分の主張を伝えることができなくなる。これも病気のせいなのか。

事業所ではロールプレイで練習をした。その時は何となくコツをつかめた気がしていた。

ところが、現実の場面、つまり、会社では練習通りにはいかない。不安が先立ち、言葉が出てこない

どうしたものだろう。


10/11/2020/SUN
酒から教わった大切なこと 本・映画・音楽・旅・食をめぐるいい話、東理夫、天夢人、2018
酒から教わった大切なこと

長い間、探していた本をようやく見つけた。2002年7月から2009年1月まで毎週土曜日、日経新聞に連載されていたコラム「グラスの縁から」を毎週楽しみにしていた。内容は酒にまつわる文学や音楽の洒落た話。知らない酒やカクテルの話も面白い。

一つ一つのコラムは簡潔な文章でまとまっていて、週末の夕方に読むのはぴったりだった。

連載が終わって単行本になるだろうと思っていたのに、なかなかそうはならなかった。そのうち、探すことも止めてしまった。小川洋子のエッセイ集を読み終えた時、他にも読みたいエッセイ集があったことを思い出した。図書館で検索してみるとすぐに出てきた。

連載をまとめたエッセイ集を読むのはむずかしい。連載中、毎週一本、楽しんで読んでいたものがまとめて差し出されると、7年分の酒を一度に目の前に並べられたようで、目次を見るだけで酔ってしまいそう。

こういう本は、初めから読むのではなく、気になる題名の章から読むのがいい。そのためには手元において、グラスを片手にゆっくり読むのがいい。つまり、買って読むべし、ということ。

本は買わずにできるだけ図書館で借りて済ませている。今回は繰り返し読みそうなので、あらためて買って読みなおすことにした。

この連載を読んでいた、2002年から2006年まで、毎週、関西方面に泊まりがけの出張をしていた。常宿にしていたホテルのバーでシングルモルトのウィスキーを教えてもらった。

お酒を楽しんでいたので、このコラムも楽しく読むことができた。

今月は健康診断の再検査があるので酒も控えている。読みながら今一つ楽しい気分になれないのはそのせいもある。

検査が終わったら、ゆっくり読む。ドライなマティーニを片手に。

カクテルはマティーニに始まり、マティーニで終わる、と教えてくれたのはこの本だった。


10/12/2020/MON
乗り継ぎのための三時間(Three Hours Between Planes, 1941)、F. Scott Fitzgerald、野崎孝訳、フィッツジェラルド短編集、新潮文庫、1990
フィッツジェラルド短編集

『酒から教わった大切なこと』で取り上げられていた一編。『酒から』を探していたのは、この小説を探すためだったと言っても過言ではない。フィッツジェラルドの短編というだけで題名がうろ覚えだったので見つからないままでいた。今回、ようやくたどり着けた。

読んでみると、記憶と違うところがあった。ドナルドは空港で偶然、初恋の人に会った、と記憶していたけれど違った。彼の方から電話をかけて憧れていた人に会いに行った。そこから先はコラムには書いていなかった。今回、初めて結末を知った。

残酷な話、というのが率直な感想。『華麗なるギャッツビー』もそうだった。青春時代の偶像を大人になってから喪失する、というモチーフはフィッツジェラルド作品の特徴なのか。アメリカ文学にもフィッツジェラルドにも疎いので知らない。

心の中で大切にしてきた偶像があんなふうに崩れていったら、さぞかし辛いだろう。でも、元はといえば、言葉は悪いが、彼が余計な「下心」を持たないでいたら、あの事件は起きなかった。ドナルドはもっと早くに「青春」を清算して、「偶像」を破壊しておかなければいけなかった。

そう。もし、二人の再会が偶然だったなら、私はドナルドに同情しただろう。そうではなかった。彼は振り返って見てはいけないものを見ようとしてしまった

そっとそこにそのままでかすかに輝くべきもの
けっして二度とその手で触れてはならないもの
オフコース「夏の終り」

多くの人は、現実と折り合いをつけながら大人になる過程で、自分と向き合い、否応なく心の中の偶像と向き合い、それを「思い出」に変えていく。

ドナルドは自分自身と向き合わないまま、大人になってしまった。だから「そっとしておくべきもの」に触れようとしてしまった。

この小説は非常に不幸な成長をした人の物語、と思う。書き出しが明るいだけに、結末はとても重かった。


さくいん:偶像オフコース


10/13/2020/TUE
ノチェロ(Nocello)
ノチェロ

隔週で母が一人で暮らしている横浜に帰省している。

ふだんは家で過ごしているので、会うときは外食したり、美術館へ連れ出したりしている。

母も私も、新しい店を探すよりも、気に入った店に生きたおすタイプ。同じ店に行き、同じものを頼む。イタリア料理が好きで、母は必ず、ピッツァ・マルゲリータを頼む。

そういうわけで、月に一度は同じシチリア料理の店へ行く。店は横浜の中心からは離れた駅前の百貨店のなかにある。安くて美味しい。きっと同じ料理を横浜や都心で食べたら倍は取られるだろう。それくらい美味しくて、気に入っている。

本題のノチェロ。この店でデザートを選んでいるときに店長らしき人が勧めてくれたのが、ノチェロ。胡桃のリキュール。

香りがいい。甘い。甘い香りのなかに胡桃の豆の匂いが残っている。

味も甘い。アルコール度は25パーセント前後らしい。ウィスキーをストレートで飲むよりやさしい味。甘いといってもお菓子のような甘さではない。あくまでもお酒の甘さ。なので、クイッと呑めてしまう。そこ我慢して香りを楽しみながらゆっくり味わう。

買ってみようかと思ったけれど、毎晩、呑んでしまいそうなので止めた。

これこそ悪魔の飲み物。月に一度、一杯呑むくらいがちょうどいい。


10/14/2020/WED
エール、第18週、「戦場の歌」、第88話、NHKテレビ

先週末の予告を見て、物語の展開は想像できていた。実際に見たドラマは想像以上に過酷だった。

兵士を鼓舞激励する音楽を作ってきた作曲家が慰問に訪れた先で、恩師に再会。

束の間の喜びのあとの奇襲攻撃。目の前で戦闘を見た音楽家の驚愕。そして恩師の戦死。

戦闘の場面は長く、激しかった。窪田正孝の演技も真に迫っていた。

もちろん私は戦場は知らない。本当の戦場を再現しているなどと言うつもりはない。朝のドラマとしてはかなり意欲的なシナリオだったと思うだけ。

製作者たちは、ドラマの主人公である古山裕一を単なる戦争音楽家としてだけ描きたくはなかったのだろう。

先週、ラングーンで、同じように慰問に来ていた作家から「戦争音楽を作って良心の呵責はないのか」と問い詰められても、裕一はまだ「応援」することにこだわっていた。

戦場を知ってしまった裕一は、明日からどんな音楽を書くのだろう。

戦意高揚の音楽を作ってきた自分とどう向き合うのだろう。

今回のドラマが始まった頃、戦時歌謡で成功した古関裕而をどのように描くのか、関心を持っていた。製作陣は私が思っていた以上に、この困難なテーマに真摯に向き合っている。

連続ドラマをふだん見ない私でも、この先が気になる。

今日は主題歌が流れなかった。誰にも「エール」を送れなかったから。


さくいん:『エール』


10/15/2020/THU
メガネを外せ

また学校での教員による暴力事件、いわゆる体罰事件が起きた。

公立中学校の柔道部で顧問が生徒にビンタや寝技をして、一人の生徒は全治3ヶ月という。

この報道の中で気になる言葉があった。

メガネを外せ

暴力教員はそう言ってから暴力を振るったという。メガネが壊れたら弁償しなければならない。暴力も発覚する。つまり、暴力が悪いことと知りながら殴っていたことが、この発言からもわかる。

中学時代、私も何度となく「メガネを外せ」と言われて殴られた。メガネをかけたままで殴ると暴力の証拠になることも恐れていたのかもしれない。

この教員は前にも暴力事件を起こしていたという。なぜ、教員による暴力事件が後を絶たないのか

理由は罰が足りないから、と思う。生徒に暴力を振るったら、街中で通行人を殴った時と同様に暴行罪を適用すべき。実際、同じ暴力なのだから

暴力を振るった教員は、二度と教壇に立たせない。わいせつ事件を起こした教員と同等の厳しい処罰が必要。

それにしても、教員の暴力事件のニュースを聞くと本当に嫌な気持ちになる。昨日は一日、ずっと腹を立てていた。


さくいん:体罰


10/16/2020/FRI
よそ者

事業部印の押印依頼があったので朝から出社。

一日、事務所にいても、誰とも言葉を交わすことはなかった。

夕方、電話会議に参加した。何の話をしているのか、さっぱりわからない。

昔は、転職したその日から米国本社のマーケティング担当者を連れて顧客へ行ったこともあった。そういうことができた時もあった。

今の会社では、もう4年もいるのに「当事者」という気がしない。「よそ者」意識から抜け出せない。

いつまで経ってもここが自分の居場所という感じがしない。

在宅勤務の今日は今日で、たいして何もすることもなく、ぼんやり過ごしている。

こんな日は何でもいいから酒を呑んで憂さを晴らしたいところ、昨夜は何とか我慢した。今月は摂生月間。月末の健康診断の再検査まではひかえている。

「よそ者」意識の原因は私にある。自分から輪の中に入っていこうとせず、勝手に疎外感を作り出している。

待遇を気にしすぎているのか。たいした仕事もしていないくせに。

契約社員でも派遣社員でもしっかり働いて会社に貢献し、会社に溶け込んでいる人もいる。

そういう人たちを見ならないたいと思ってはみても、行動が伴わない。


10/17/2020/SAT
エール、第18週、「戦場の歌」、NHKテレビ

今週の朝ドラ『エール』は重かった。これまで和やかな家族団欒や裕一のサクセスストーリーで話が展開していただけに、断崖絶壁から突き落とされたような感じがした。

戦争を描くことは難しい。体験した人には「こんな風ではなかった」と言われるし、体験していない人には生半可な表現では届かない。

今回の『エール』は「戦争を伝える」という意味では、特に朝の連続テレビ小説という、生々しい演出が憚られる枠だったことを考えると、かなり意欲的で、そして彼らの意図は成功したと思う。コロナ禍のせいで予定していた8月に遅れて放映となった。かえって8月以外に先の戦争に想いを馳せる機会を与えことにも意義があった。そもそも8月しにか戦争について考えない風習がおかしい。

時折、起伏もありながら、基本的には音楽家、古山裕一の成功譚として話ては進んでいた。朝ドラらしい「家族」を描く物語だった。

今週は先週までとは、シナリオも演出も演技も、まったく違っていた。タイトルは色なしになり、主題歌は流れなかった。

それまで笑顔で登場していた藤堂先生や弘哉が突然に戦死して画面から消えた。崖から突き落とされたように感じたのは、ドラマ全体を覆う空気の劇的な変化のせいだった。

空襲の焼け跡で、家族が幸せだった昔を振り返りながら光子が歌う讃美歌が心にしみた。「歌う」という悲しみ方もある

薬師丸ひろ子はほんとうに歌がうまい。特に劇中歌。『あまちゃん』の鈴鹿ひろみの時もそうだった。彼女自身、劇中で歌うことがが好き、とインタビューで答えていたことがある。歌手としてではなく、役柄の人物として歌う。

光子の歌には「悲しみ」とともに「希望」が感じられた。


さくいん:『エール』悲嘆薬師丸ひろ子


10/18/2020/SUN
(続き)悲しみ方について

昨日の続き。

ドラマでは、大切な人を失くした人たちが悲しみの感情をあらわにして号泣していた。いわゆる「手放し泣き」と呼ばれる悲しみ方。弘哉の母親も、弘哉を慕っていた華も。

悲しみは思い切り発散させるほうがいい

裕一は喪失があまりに突然で、しかも目の前で起きたから、ショックが大きすぎて、石原吉郎の言う「失語症」のようになっている。ナレーションも「曲を書かなくなった」と伝えている。これはよくない。悲嘆が心身を硬直させている。「ケア」が必要な状態。

来週は、裕一が悲しみを発散させて、戦後の一歩を歩みはじめることを願う。

ここから先はドラマの本筋からは離れて、極めて個人的な感想。

あの時、無理して平静を装わず、あんな風に私も悲しみをぶちまけてしまえればよかった。そうすれば、こんなにまで長く複雑に、こじれることはなかったかもしれない

でも、あの時は、誰もが「今まで通りでいい」「今まで通りだから」と言った。何もかも「今まで通り」ではなくなっていたのに。


さくいん:『エール』悲嘆


10/19/2020/MON
テネット(TENET, 2020), written, produced, and directed by Christopher Nolan, starring John David Washington, Warner Bros. Picture, 2020

息子のおすすめで新作の映画を観てきた。

結論を先に書くと、何が何だか、最後までわからなかった。

自分の映画リテラシーが低いことに失望した。

解説を探してネットを回っていると「わからなかった」「難解だった」と感想を書いている人が結構いた。

わからなかったのは自分だけではなかったことがわかって、すこし安心した。

それにしても、なぜ、「何が何だか」わからなかったのだろう。

タイムスリップを題材にした作品ということはわかった。他のタイムトラベルものと違っていたところは、同じ時間に、過去から来た人と現代を生きている人と未来からきた人が入り混じっているところ。誰がどの世界の人なのか、観ていてわかりづらかった。

決定的に失望したのは、結末の意味がわからなかったこと。ネット上のいろいろな解説や感想を読んで初めて結末の意味がわかった。何とも情けない。

一つ、わかって面白かったことは、『キングスマン』でスパイ組織の親玉を演じていたマイケル・ケインが似たような役柄で出ていたこと。これはわかった。


10/20/2020/TUE
Rainy Saturday

Walking in the rain

To see a doctor near the park

See him once a month to ease my pain

'Cause my mind fell into depression due to over work

Or, I was so greedy that I became insane

Doc's words sound like a flash in the dark

Saying I could even fly again

Maybe I need medicines until I need a cane

Hopelessly my heart won't spark

My efforts to recover always ends in vain

Never will I be able to fly like a lark


さくいん:英語


10/21/2020/WED
カミングアウトについて

カミングアウトして疎んじられ、告白をして自己嫌悪して、それを繰り返すと「二度と告白しまい」と堅く決心してしまう。

私は自分が何者であるか、どういう境遇の人間であるか、二度とカミングアウトしない一つの言葉で自分を縛りたくないから

もっとも、私が書いた文章を読めば、私がどんな境遇にある人間かはすぐにわかる。

その意味では、私の文章にもツイートにもタグはいらない。どの文章も、同じことについて書いているから。

だから、カミングアウトを意図しないのではない。その必要がないからしない。

それでもまだわかってもらえないなら、わかってもらえるまで書くしかない


さくいん:秘密


10/22/2020/THU
柿の種(1920 - 1933)、寺田寅彦、岩波文庫、1996
柿の種 書影

実家の本棚にあった文庫本を借りてきた。本書は俳句の同人誌に連載された短文集。ほとんどの文章が文庫本1ページに収まる短さ。

コラムあり、箴言あり、SF的なショートショートあり。社会風刺やジャーナリズム批判もある。

科学者らしく、目のつけどころが変わっている。そこから深まる考察も鋭い。最後は俳句の話に戻ることが多く、同人誌の連載コラムという目的にも適っている。

こういう、元々連載だった文章は、ちょっとできた合間に一つずつ読むと楽しい。

ちょうど酒のつまみに柿の種をつまむように。

一つ、驚いたこと。

寺田が昭和3年7月(1928)に書いた文章(P105)に「かなりリアルに想像して」という一節があり、この用法が、それほど古くから使われていたことを知った。

私のなかでは、佐野元春「SOMEDAY」(1981)の「リアルに感じてしまうこの頃さ」が最初だった。私が新鮮と思った表現が、実はその50年以上前にあったとは。

大正から昭和初期に書かれた文章でも、文体は驚くほど現代的でとても読みやすい。

「夏目漱石の弟子」と聞くと、とてもむかしの人物に思えてしまう。それは漱石が早世してしまったからで、愛弟子たちは昭和まで活躍していた。

随筆なので鹿爪らしい処世訓などは書いてない。ただ、一文、心に響いたところを抜書きしておく。

いつまでも花を咲かせないで適当に貧乏しながら適当に働く。平凡なようであるが長生きの道はやはりこれ以外にはないようである。
(昭和十年十月十一日)

この一文は、私を大いに慰めた。


さくいん:夏目漱石


10/23/2020/FRI
書影について

これまで、本の感想を書くときは、自分で撮影した本の表紙を掲載していた。ネット上にある書影をそのまま使うことは著作権の侵害になると思っていたから。

ところが、そうではないらしい。

出版協副会長、成澤壽信の「新刊紹介でのカバー画像(書影)の使用について(ほんのひとこと)」によれば、出版社協議会としては本の宣伝にもなるので、ネット上の書影は使用してよいらしい。

この文章を信用して、これから本を紹介するときには、ネット上にある書影を使うことにする。さっそく寺田寅彦『柿の種』の書影を借用した。

これまで書いた書評や感想、本の感想は修正しない。と、言いつつも、途方もなくヒマになったらそういう手遊びもするかもしれない。

参考:一般社団法人 日本出版者協議会


10/24/2020/SAT
夜の散歩

朝、布団から出るのが億劫な季節になったので、夕方、仕事を終えてから散歩することにした。夕飯前にちょうど時間が空いている。

むかし住んでいた団地を抜けていつもの公園まで。すでに陽はとっぷりと暮れている。

公園ではラジオ体操に老人たちが集まっている風景とは違い、まだ遊び足りない子どもが多勢いる。

ススキが外灯の下で揺れている。東京の片隅にこんな景色もある。

おしゃべりしながら下校する中学生とすれ違う。ほの暗い外灯の下で友だちと話し込んだ中学三年生の冬のことを思い出す。

高校生の頃に通っていた英語学校の授業は夜9時に終わり。宮益坂を渋谷駅までおしゃべりしながら歩いた。あの頃、憧れていたあの人たちは今頃どうしているだろう。

早歩きすると少し汗ばむ。運動にはちょうどいい。これからは夕方に歩くことにしよう。散歩の終点で自分にご褒美をあげるのもいいかもしれない。

いや、それでは散歩の意味がなくなるか。ご褒美は週末だけにする。


10/25/2020/SUN
エール、第19週「鐘よ 響け」、NHKテレビ

古山裕一は戦意を高揚させる音楽を沢山作った。戦後、世間だけでなく、彼自身も責任を感じていた。

同時に、裕一は戦場の現実を目の当たりにして、あまつさえ恩師を目の前で失くした。

多くの若者が僕の音楽に駆り立てられて戦場へ向かい、命を落とした

裕一の自責の念は深い。しばらくはまったく曲を作ることもできなかった。

焼け跡で憔悴していた人々を「応援」する音楽を裕一は作りはじめた。

それが彼なりの「償い」だった。ドラマはそういう解釈をしている。

事実は知らない。ドラマの筋書きとしては納得している。これが水曜日までの感想。

確かに、裕一には戦時に積極的に軍部に協力した責任があると言わざるを得ない。では、その罪はいかにして償うことができるのか。

音は裕一に「あなたは役目は果たしただけです」と言って慰めた。だが「役目を果たしただけ」なら業務としてホロコーストを遂行していたアイヒマンと同じになってしまう。

NHKの番組『英雄たちの選択』で、磯田道史は「古関裕而は、どこまでも民衆に寄り添う音楽家だった」と解説していた。戦時には銃後の人々や出征する人々に、戦後は絶望した人々や復興に汗を流す人たちのに。

それは一見正しいように見えて、実際には場当たり的な生き方ではないだろうか。

例えば、赤坂憲雄は『北のはやり歌』のなかで、古関裕而と同じように多くの戦時歌謡を作詞したサトーハチローが戦後すぐにそれまでの仕事を忘れたかのように「リンゴの歌」を発表した安直な姿勢を厳しく批判している。

この「転向」をどう描くのか、製作陣にとってかなりの難題だったのではないか。

『長崎の鐘』を作曲するために会いに行った永田博士は裕一を戒めた。

自分の贖罪のためというだけではこの詩に曲は書けない

「償い」ではいけない、とはどういうことなのか。

裕一の音楽には独りよがりなところがある。若いときから、自分のために書こうとするとうまくいかない。東京で活動を始めた頃には「西洋音楽の知識をひけらかして鼻につく」と非難されていた。

そういう裕一が、我を忘れて、誰かを「応援」するために書くと、裕一らしい名曲が出来上がる。

それを気づかせようとしているのか。ここまでが木曜日。

金曜日。想像通り、永田は裕一に彼の才能は人々を「応援」する音楽を作るところにあることを自覚させた。

絶望の果てに希望あり

裕一は恩師を目の前で失くした悲しみと戦意高揚に加担した自責の念の中で苦しんだ。

その苦しみの果てに「応援」する音楽を作り続けるという「希望」を彼は見出した。彼の音楽は戦後の人々に「希望」を与えた。

実在の古関裕而をサトーハチローと同様に批判的な目で見る人がいることは理解できる。私は、このドラマにおいては、主人公、古山裕一が悲嘆と罪悪感という絶望の果てに己れの役割を見つけて、戦後も「応援」の音楽を作り続けた姿勢は立派なものと思う。

このドラマはよく練られている。一言で言えば、そういうことになる。


さくいん:『エール』


10/26/2020/MON
上田薫展 - ただひたすら、リアルに描く、横須賀美術館、横須賀市
上田薫の作品 横須賀美術館からの眺望

週末、横須賀美術館へ行った。企画展は写実画の上田薫展。

抽象から写実へ、静物から動きへ、卵から泡へ、そして液体へ。芸術家が次々とモチーフを変えていく過程が興味深い。

同時に見つけたモチーフを飽きるまで繰り返し作品にする執着心にも。

一番感心したのは水の入ったコップ。近くで見ると絵具の塗りあとがわかる。数歩下がってみると写真のように見える。人間の目の解像度は案外低いものと気づかされた。

横須賀美術館は前庭の芝生が広々していて開放的。そこから見える海の眺めも素晴らしい。


10/27/2020/TUE
健康診断、再検査

例年の健康診断の後、健保組合から呼び出しがあった。曰く、肝機能に問題あり。数値もまずまずだったし、酒量も40代の頃に比べれば減っている。訝しい気持ちを持ちながらも、タダでもう一度検査してくれるなら診てもらおうというつもりで出かけた。

結果は、超音波による検査でも、肝硬度の検査も問題なし。一安心した。

問題はここから。

健保組合の建物を出ると、とっさにスマホを取り出してメールを確認した。仕事のメールはもう来ないはずなのに。

営業職を辞めてから6年が経つ。まだ、外出したときに「何か起きているかもしれない」という不安から逃れられていない。

ふだんは内勤だったり在宅だったりだから、何かあればすぐメールが来てわかる。今日は珍しく勤務時間内に外出していた。こんな状況は久しくなかった。

だから自分でも驚いた。外に出て無意識にメールを確認している自分に。まだ不安が解けていない自分に。

なぜかわからないけど、涙がこぼれてきそうになった。

帰社はせず、地下鉄を乗り継いで帰ることにした。中華料理店で餃子をつまみに生ビールを2杯呑んで、気持ちを落ち着かせた。

帰りの電車で、やまがたすみこ風に吹かれて行こう」を聴いた。

風に吹かれて行こう
生きていくことが今
つらくいやになったら
風に吹かれて行こう

駅で降りて純米酒を一本買う。750ml。歩いて家に帰る。

今夜はもう少し呑んでから寝る。中島みゆきを聴きながら。

「時代」はデビューアルバム『私の声が聞こえますか』のバージョンが一番好き。

そのあとの選曲。

「アザミ嬢のララバイ」「世情」「こんばんわ」「りばいばる」「断崖」「ホームにて」「まつりばやし」「女なんてものに」「海鳴り」「おまえの家」「わかれうた」「友情」「成人世代」「エレーン」「テキーラを飲みほして」「肩に降る雨」


さくいん:中島みゆき


10/28/2020/WED
山本大貴 油彩画集、芸術新聞社、2020年

2016年に実物を見てから虜になった山本大貴。初めての画集が上梓された。丸の内の丸善本店にサイン本があると金曜日にTwitterで知り、日曜日に行ってみたらもうサイン本は売り切れていた。いま、日本で一番入手しにくい画家らしい。

それはともかく、画集を手に入れたので、個展のないときでも自宅で作品を見られるのはうれしい。

お気に入りは浴衣姿の作品と豪華なワンピースを着た姿の作品。

超絶技巧であることは言うまでもない。加えて、温もりや気配まで感じさせるところに山本写実の魅力がある。

気配というのか、アウラと言う方がいいのか。そこに人間が実在するかのような雰囲気。同時にそれが虚構であることも感じさせる微妙な、もしくは両義的と言いたくなる雰囲気。印刷された作品でもそれはわかるけど、実物の作品はその空気感が強い。画家自身も実物を見てほしいと述べている。

写真のような絵ではない。よく見れば絵とわかる。写真を超えた写実性、と言ってもいいかもしれない。

できれば自分のものにして部屋に飾りたい。もうちょっと背伸びしたくらいでは手が届かない価格になってしまったので、所有することはむずかしい。それでも、実物が見られるだけでも満足。

次の個展が楽しみ。


さくいん:山本大貴


10/29/2020/THU
エール、第20週、「栄冠は君に輝く」、第99話、NHKテレビ

今週も重苦しい雰囲気が続いている。終戦直後にはさまざまな「闇」があったのだろう。

戦時歌謡を歌って一世を風靡した男の苦悩と葛藤。これは容易には解けない。古関裕而や伊藤久男をそういうイメージだけでとらえている人は同時代に生きていた人には少なくない。

このドラマは、そういう主人公たちの葛藤や世の中が抱いていた偏見を美談でごまかさず、正面から向き合っている。

「堕ちろ、堕ちろ」永田博士は言った。底まで堕ちて見えるものが「希望」だと。

いったい、どこまで堕ちればいいのか。いったい、何が救いになるのか。友、運、神?

わからない。


さくいん:『エール』闇、暗黒


10/27/2020/FRI
糖質0のビールはビールなのか

糖質0のビール、という商品が発売された。これまでもいわゆる「第三のビール」などでは糖質0商品があったが、ビールでは日本初という。

気になるので、夕方の散歩の帰りにスーパーで買ってみた。

酒税法が変わったので、ビールが少し安くなった。税込みでも200円以下。

これはかなり危ない誘惑。

呑んでみると味も悪くない。アルコール度数が4%と低めなので、飲みやすくスッキリした後味。

缶をよく見ると原材料に「糖類」が入っている。これは何か。コーンスターチか何かか。

何にせよ、麦芽とホップ以外の材料を使っているなら本物のビールではない

日本酒では純米酒、ビールでは麦芽とホップのみの商品を選んでいる。ちょっと高くても、ここは譲れない

せっかく価格も安くなったことだし、回数を減らしてでも、美味しい本物のビールを呑む。


10/31/2020/SAT
エール、第20週、「栄冠は君に輝く」、第100話、NHKテレビ

一昨日の続き。

ドラマは久志が「栄冠は君に輝く」を歌いあげて終わった。これで暗闇から脱出、「完全復活」という意味だったのか。

久志が復活できたのは、幼い頃からの親友、裕一の熱心な説得のおかげだった。しかし、それだけではない。

久志が復活できたのは、立ち返る原点があったから。

歌。

彼には歌の才能があった。彼は一度成功を手にしている。歌の才能があるから、再び歌で立ち上がることができた。


さくいん:『エール』英語