東京国立博物館のステンドグラス

ようやく『神曲』を読み終えた。といっても、詩集なので文庫本の厚さの割りには早く読み終ることができた。

『神曲』のような古典の感想を書くのはむずかしい。すでに解釈も文学史上の位置付けも語り尽くされているし、学術論文でもない素朴な感想を書いたところで大河の一滴にもならない。私の読者は少ないとはいえ、間違った読みをしていて失笑を買うのも恥ずかしい。

そういう考えからパスカル『パンセ』の感想は書かなかった。

今回、世界文学の古典を読みながら、最近の心持ちから何か感想を書きたくなった。とはいえ、内容は書評・批評とはほど遠い、まったく独りよがりなものになる。それはそれで、いまの自分の精神状態を思い出すためには役立つに違いない。

見当違いの読みを防ぐために図書館で概説書と『神曲』についてのエッセイが収録された『土居健郎選集』を借りてきた。


感想として書きたいことは3点。はじめの2点はこれまで何度も書いてきたこと。一つ目は"PTG"。二つ目は「初恋」。三つ目は古典の訳文について。

『神曲』はダンテ自身のPTG体験を書いたものではないか。祖国を終われ亡命生活を余儀なくされた逆境、そこで苦しみながらも希望を見出し、救済された。地獄、煉獄、天国を旅した詩人は新しく生まれ変わり、地上で生きていく。

該博な知識を散りばめ、韻を踏みながら緻密な叙事詩を書くことそれ自体が生きる希望を見出す修行となったとも言えるだろう。

森有正の言葉を借りれば、「体験を苦悩のような思索と表現を通じて経験に昇華し、三位一体を定義した」と言えるのではないか。

「天国篇」に書かれた解脱とも言える神秘体験は、詩人の願いではなく、実際にダンテが体験したものだったと思う。

ダンテは『神曲』に先立ち『新生』という作品を書いている。すでに生まれ変わった気持ちで大作の創造に挑んだと私は考える。

そう思うのは「地獄篇」「煉獄篇」はヒリヒリと実感するものがあったのに「天国篇」にはさほど心は動かされなかったから。逆境の経験は私にもある。この10年間、地獄を彷徨い歩いた。ようやく煉獄で 人間らしい修行が始まったところ。天国を垣間見るような体験さえしたことがない。あるとすれば昨夏の出来事だろうか。

実際、私の体験の有無を別にしても「天国篇」は筆致が前2篇と異なる。地獄と煉獄では生々しい表現が延々と続く一方、天国では恍惚とした表情や「言葉では尽くせない」という表現が頻出する。ダンテが高揚しているのはわかるものの、地獄や煉獄ほど天国の様子はは伝わってこなかった。これは神秘体験のない私に受け入れる素地がなかったせいだろう。

天国篇で気づいた謎。三位一体は「神と子と聖霊」と 大昔に世界史で教わった。『神曲』では「神と子と愛」となっている。『神曲』では私が読んだかぎり、「聖霊」という言葉はなかった。少なくとも頻出してはいなかった。訳者注では「聖霊、つまり愛」と書いてある。こういう解釈は聞いたことがない。

どういうことか疑問には思うけれど、神学の知識のなく、信徒でもない者がいくら悩んだところでわからるはずもないので、謎として残しておく。


二点目。『神曲』には二人の案内人がいる。ローマの詩人ヴェルギリウスとダンテの初恋の相手と言われているベアトリーチェ

この二人が案内人に選ばれたのは、両者がダンテにとって重要な人物であったからなのはいうまでもない。加えて、思春期に出会った「初恋」の相手だったことも重要に思われる。

ここで「初恋」と言っているは、単に最初に異性に恋愛感情を抱いた心境だけではない。初めて出会った「芸術」、家族以外で初めて尊敬し、憧れた人物もどちらの性別であれ、「初恋」の相手となる。こういう出会いは思春期の始まりによく起こる

つまり、ダンテは人生の最も苦しいときに年若い頃に出会った芸術家と女性を支えにして天国を目指した。原体験をとても大切にしていた、とも言えるだろう。


ところで、ヴェルギリウスとベアトリーチェは同じように案内人でありながら、道案内の仕方が異なっていると土居健郎が書いている。ヴェルギリウスは身振りや視線の動き、すなわち「言語以前の手助け」でダンテの進むべき方向を指し示す。一方、ベアトリーチェは「言葉をもって教えを諭し」「言葉を超えた存在に目を向けさせる」。

言葉を交わしたことのないはずのベアトリーチェが言葉で導くという設定は面白い。これこそダンテの願望だったのかもしれない。

ベアトリーチェとのやり取りは面白い。ダンテは目の前にいる神を忘れて、ついついベアトリーチェを見つめてしまう。ベアトリーチェはダンテを叱り、「光」を見るように促す。

繰り返す。ダンテは多感な思春期に出会った

言葉を換えれば、ダンテは何度もベアトリーチェに対する「偶像崇拝」に陥りそうになるところをベアトリーチェからその心境が過ちであると諭される。実際にはベアトリーチェの台詞はダンテが書いている。つまり、ダンテはベアトリーチェへの思いだけで満足しそうになるところを立ち止まらず、より高貴な、より普遍的な存在へ踏み進んで行く。

初恋は終わり、「一人きりでも何かが見えてくる」。そして初恋は終わらない。

生涯忘れず、苦しいときに心の支えになる原体験があるのはとても幸せなことと思う。

また、幸せな瞬間にも忘れることがない心の傷があるのはとても悲しいことと思う。


今回、案外すんなり読破できたのは訳文におかげでもある。同世代の訳者が使う日本語は私にはとても読みやすかった。

考えてみれば、800年も前のイタリアで書かれた詩を、現代の日本語で読めるということはとてもありがたい。訳者の地道な努力のおかげでイタリア語を解さない人でもイタリアの古典に触れることができる。

これは日本語の古典についても言えるのではないか。日本語の古典を前にすると、多少は読めるものだから原典で読まなければ読んだことにならない、と思いがち。

こうしてヨーロッパの古典を現代の日本語で読むことは不自然ではないのだから、日本の古典も原典主義にしがみつくことなく、現代語訳を積極的に読んでもいいかもしれない。


さくいん:ダンテ土居健郎森有正