特別展 ちいさいおうちの ばーじにあ・りー・ばーとん、教文館・ウエインライト・ホール、東京都千代田区
前回、同じ催しを見逃してしまったので、今回はチラシを見たときから「絶対に行く」と決めていて楽しみにしていた。
原画を見ていると、ただただ感激。読み聞かせてもらった声が聴こえてくる。
バートンはデッサンやデザインにも秀でていた。その才能を活かして物語と文字と絵からなる総合芸術である絵本を作っていた。だから彼女の作品は非常に細やかに本文と絵が連動しているし、絵本の中はもちろん、見開きまでも細かく描かれていて、しかもそれぞれの細かい描写に意味がある。
『ちいさいおうち』に夫と息子たちが描き込まれてことは初めて知った。
バージニア・リー・バートンは実に多才な人だった。
この日は美術館や展覧会以外でも、貴重なものを見る機会があった。
銀座の教文館ではバッハが手元に置いて書き込みをしていた大判の聖書の復刻版、『カロフ聖書』、日本橋、丸善では陶器市で 板谷波山の香炉、珍本稀覯本の売り場では16世紀出版のダンテ「神曲」。
どれも値札がついて売られていた。数え切れないほどの桁だった。
さくいん:バージニア・リー・バートン、銀座
一人で神代植物公園へ行ってきた。陽射しも強過ぎず、快適な散歩だった。
いつもの通り、冷やしたぬき中盛りを食べた。
さくいん:神代植物公園
佐島
天気がよいので葉山と長者ヶ崎を越えて佐島まで行った。
逗子駅からバスで1時間。最近流行りのテレビ番組のような路線バスの旅。
バスは1時間に1本しかない。短いあいだに海を眺めて、岩場を歩いて断層を見て、昼食を済ませた。ランチは地元産の生しらすとキャベツのパスタ。
この連休は穏やかな気持ちで過ごしている。鬱々とした気持ちで長々と文章を書くこともないし、Twitterすらほとんど発信していないし、見てもいない。
手元の聖書があまりに古いので銀座へ出かけた折に最新版を購入。
新約は新共同訳を持っている。旧約は1954年出版、1975年発行とあまりに古い。 私が読みはじめたのはいつも気分が重かった中学三年生の頃。
『草の花』(福永武彦)や『塩狩峠』(三浦綾子)、『狭き門』(ジイド)を読んでいた時、聖書とはどういうものか、知りたくなり、エピグラフに掲げられているところや引用されているところだけ拾い読みした。
あの頃は小説ばかり読んでいた。いまとは正反対でエッセイや新書の類もほとんど読むことがなかった。
前に教文館へ行ったとき、改訳版が出版されたことを知った。
毎晩必ず読むというわけではない。『神曲』を読むときや西洋美術を見るときによい参考書になるだろう。
さくいん:福永武彦、三浦綾子、ダンテ
連休最終日
家でのんびり過ごしている。
図書館で雑誌を眺めて、昼寝して、仏像なぞり描きして、柏餅を食べて⋯⋯。こんなに落ち着いた気持ちでいるGWは何年ぶりだろう。 昨年も一昨年も、この時期、落ち着いた気持ちから一転して急速に調子を落としていた。
問題は明日から。気持ちも体調も余裕をもってゆっくり働く日常へ戻っていく。
焦らず、慌てず。回復、すなわち寛解への鍵はそこにある。
今夜はダンテ「神曲」「天国篇」を読み進めて早めに休む。
今日、眺めた本。
ダンテと宇宙人
ダンテ『神曲』を読み続けている。
臨場感あふれる幻視体験を読んでいて思うことがある。
ダンテは宇宙人にアブダクションされたことがあったのではないか。
中世の人がこれほど壮大な世界観・宇宙観をもち、それを表現していたことに驚きを禁じ得ない。
さくいん:ダンテ
ベアトリーチェの声
『神曲』「天国篇」を読みすすめている。
前に、黙読していてもダンテは星飛雄馬、ウェルギリウスは星一徹の声で聴こえてくる、と書いた。
「天国篇」の案内人、ベアトリーチェはどうか。
永遠の貴婦人。心に宿る美少女。母の生き写しでもあり、初恋の相手でもある。ダンテが用いるアリストテレスの言葉を借りれば美そのものの可能態であり、現実態ではない。
これはもうメーテルしかいない。
もちろん声は池田昌子。
そういえば、メーテルも旅の案内人だった。
さくいん:ダンテ、『銀河鉄道999』
新しいことを始める
最近、状態が良いせいか、何か新しいことを始めてみたいと思うようになった。
三日坊主になると恥ずかしいのでここには書かない。すでに少しずつ始めたものもある。
いつも形から入ってすぐ冷めてしまう。
今回は、手ぶらで始める。慣れてきてから道具を揃えたり、専門の場所に行ってみる。
また何かできるかもしれない
そんな望みを感じながら
気分はオフコース「水曜日の午後」。今日も水曜日。朝の雨が夕方には晴れていた。
抹茶ロールケーキを食べた。
o歳に戻ったつもりで新しく生きる。せめて二十歳になるまで。
うれしい出来事
昨日はうれしいことがあった。
うれしいこととは書いた文章に感想をもらったこと。しかも、自分でも珍しく広く読まれたいと思っていた文章に。
自分からは他の人のサイトに感想を送ったことはほとんどない。見ず知らずの人にメールを出すにはかなり勇気がいる。
それを知っているから、とてもうれしかった。とても感謝している。
一年に一度の特別な日に余りある贈り物だった。
自称知識人について
安倍政権を支持している人たちが理解できない
そうつぶやいている「おじさん」がいる。
民主主義とはどんな意見でもまずは聞くこと、そして議論すること、などと言い、ふだん訳知り顔で言っている自称知識人は、たいてい自分が理解できない人や自分と意見を異にする人を見下している。
「理解できない」という言葉は想像力の欠如を示す。もしくは、理解しようという努力を放棄している慢心を顕す。
自分と意見の合わない人に嫌悪感を持つのは仕方ないとしても、「なぜ、そんな考えを持っているのか」、それを想像することをやめたらデモクラシーは成り立たない。
リベラルとか、左派と呼ばれている論者にこういう「決めつけ」をする人が少なくない。
だから、彼らは現政権を支持する人たちからますます”生理的に”嫌われる。
議論を尽くすことを拒んでいるのはどっちなのか。
ヘンなオジさん
朝一番に病院へ行くと混んでいたので時間つぶしに公園まで行くと朝から缶ビールを呑んでいるオジさんに話しかけられた。
「どんな音楽が好きなんだ」て訊かれて適当に応えていたらJames Taylor とJ.D. Southerのデュエット曲がいいよと教えてくれた。
家に帰る金がないと言うので、小銭がないので千円札あげて解放してもらった。
この季節は
カレーを作った。昼飯を食べてから玉ねぎ9個をゆっくり炒めてルウから作った。
美味しく出来上がり、家族の評判も上々。
最近は手早く作れるキーマカレーが多かった。チキンカレーを作るのは久しぶり。
この季節は毎年調子がいい。ここで調子に乗ると梅雨時に山から転がり落ちるように鬱になる。休職中、「休むことが仕事」と言われていたのに自転車で遠出してあとßから膝が痛くなったり、部屋の模様替えしたりして疲れて寝込んだりしたのもこの季節。
S先生にそう話すと「自分でわかるようになったのは大きな前進」と褒められた。
「のんびり行きましょう」と促された患者は素直に喜んだ。
微笑みのニュース
神妙な面持ちで殺人事件を報道したあと同じアナウンサーが嬉々としてスポーツの結果を紹介する。
こういう構成のニュースが気味悪く感じられてならない。
せめて違う人に受け持たせてはどうか。
「微笑みのエンディング」はさらに気味が悪い。
炭酸水
のどが渇く季節がいつになく早くやって来た。
缶ビールは安くても200円。
缶炭酸水なら37円。健康維持と財政緊縮の一石二鳥、ということで平日の夜は炭酸水。
半分飲んだら寝る。残りの半分は翌日、朝の薬と一緒に飲み干す。
ダメな一日
今日はダメな一日だった。
昔のことを思い出して「もう少し何とかならなかったかな」ということばかり考えている。ズバリ同じ気持ちをSimon & Garfunkelが"Slip Slidin' Way"で歌っている。
She said "A bad day's when I lie in bed
And I think of things that might have been"
昨日、「平日には呑まない」と書いたばかりなのに、もう今日駅前のコンビニで缶ビールを買って呑んだ。
後ろめたいことは考えないようにする。
呑みたい日は呑めばいい。開き直ることもつまづくよりはマシかもしれない。そう自分に言い聞かせている。
さくいん:サイモン&ガーファンクル
散歩
「人生100年」という題目がかまびすしいけれど、鉄人やヒデキの訃報を知ると健康寿命どころか実質寿命は短くなっているのではないかと思われてくる。
あと20年、いや10年かもしれない。
父は80歳を過ぎても元気だった。私はそんなに長く生きられるとはとても思えない。
そんな悲観的な気持ちに落ち込みそうになっている。原因は仕事にある。
金曜の夜遅く、アメリカに電話をかけた。今朝も電話をかけたりメールを見たり。結局、懸案は解決しないまま週末を迎えた。
もう仕事のことを心配しないようにしなければ。
それを求められてもいないし、それに耐えられないこともわかっているのだから。
夕方、公園を散歩した。
まぶしい西陽のなか、やさしい風を浴びながら歩いていたら気持ちが落ち着いて来た。
色づく日を待つ紫陽花を見つけた。
この穏やかな心持ちが6月までも続きますように。
公園のベンチでそっと願った。
長い日曜日
朝9時半から午後までトーハクを満喫した。
それから東京文化会館のオープンカフェでコーヒーを飲んでから西洋美術館へ。
一日中歩きまわり、近年稀にみる活動的な日曜日になった。
トーハクでも西洋美術館でも、お気に入りの展示品と絆を確かめるように再会できた。
発見は伊能忠敬。もっと知りたいと思った。
以下、今日観てまわった展覧会と作品。
東京国立博物館
西洋美術館
さくいん:東京国立博物館、ギュスターブ・クールベ、オーギュスト・ルノワール、ジョルジュ・ルオー
昨日は気温は高過ぎす湿度も低く、快適な散歩日和だった。
ツツジの赤、木々の緑、空の青、雲の白が重なる。
雲がゆっくりと動いている。清々しい5月の日曜日。一番好きな季節。
さくいん:東京国立博物館
高度プロフェッショナル制度について
多くの労働者がこの制度に対して反対の声を上げていない。集団的自衛権の論争時に比べれば無関心にちかい。その理由は、おそらく高プロ的な状況にすでに置かれていて、法律は現状を追認するだけと誤解しているからではないか。
最後の砦である労基署や労働基準法が骨抜きにされることまで気づいていない。
私自身、高プロ的な環境で働き心身ともに疲弊し、2年間の療養を余儀なくされた。
それでもさまざまな安全網のおかげで再就職できた。安全網に気づいたのはもう働けなくなってから。
走り続けているときには、何が自分を守ってくれているのか、なかなか気がつかない。
さくいん:労働
『この世界の片隅に』資料展、三鷹コラル、東京都三鷹市
日曜日の帰り道、買いたい本があったので三鷹で降りた。
書店のあるビルに入ると、映画『この世界の片隅に』の設定資料のパネル展示があった。最近、「広島物産展」が催され、その縁で映画資料の展示に至ったらしい。
前に片渕監督の事務所があったり、『この世界に』が自主上映されたり、もともと三鷹と広島は片渕監督を介していろいろつながりがあると説明されていた。
上の2枚の写真をツィートしたころ、これまでにない多くの回数RTされた。
この作品への関心、とりわけSNS上での高さを如実に感じた。
『破戒』のなかの志保
島崎藤村『破戒』は部落差別の批判をする社会派小説として知られている。だから主人公の恋愛、すなわち志保の存在は蛇足ではないか、という疑問を耳にした。
私は意を異にする。志保は作品中、なくてはならない存在と思う。
『破戒』は「読む」作品である以上に「読ませる」作品。誤解を恐れずに言えば、差別という主題の背景にサスペンスとロマンスがあるから。
もし藤村が詩人として成功した後で『夜明け前』だけを書いていたら日本文学史での位置付けは違っていたと思う。 『破戒』なくして晩年の大作『夜明け前』はあり得ない。何度か挑戦しているけれど、『夜明け前』はずっと読み途中のまま。
ところが『破戒』は何度か繰り返し読んでいる。劇的な場面を拾い読みすることもある。
何度も読みたくなるのは、読ませるだけの勢いが作品にあると言うほかない。
さくいん:島崎藤村
Déjà vue
4人揃うのが当たり前だった夜の食卓。最近、二人になることが増えた。
家族とはこんな風に姿を変えていくものなのか、しみじみ。
二人きりの食卓。なつかしい風景。25年前は食卓はいつもこんな風景だった。
こういう状況もデジャヴュと言うのだろうか。
落ち着いているときが危ない
平均台や綱渡りを例にしてみる。
調子がよいときにはリズムに乗ってどんどん進める。弾み過ぎないように気をつけることはできるようになってきた。
気落ちしているときはしがみつき這いつくばるようにしているこら落ちることはない。
問題はどちらでもないとき。こういう時が危ない。
ぼんやり立っていると小さな横風だけでも鬱の底へ落ち込んでいく。
些細な事件、他愛もない言葉、ふと耳にした噂、テレビで見た嫌な出来事⋯⋯。
そう いう何でもないように見えることから鬱が始まる。
そんなことを考えながら久しぶりに大きな公園を散歩した。
この公園は、以前、近くに住んでいたので子どもと毎週末来ていた。
キャッチボールをする親子を見て、とてもなつかしい気持ちになった。
先週の日曜日、西洋美術館の常設展を観て気に入った一枚。ラ・トゥールより少し後の時代。写実性は引き継がれている。
ここでも青に惹かれた。
作品名も作者もメモすることを忘れていたところ 、Twitterで教えてくれた人がいた。
神曲 原典
『神曲』の原典はどういうものか探してみた。
検索して見つけたのは、"Mapping Dante - A Study of Places in Divine Comedia"というサイト。原典以外にも『神曲』に登場する場所が地図の上で参照できるようになっている。元はこちらがサイトの目的らしい。
原典を見て驚いた。ほんとうに韻文になっている。イタリア語はわからなくても、アルファベットを見るだけでもわかる。イタリア語はほぼローマ字読みなので、言葉の意味はわからなくても発音が韻を踏んでいることは文字を眺めればわかる。
現代語訳の『神曲』には、作品世界の広さとダンテの知識と想像力に驚いた。それだけでも十分な驚きだったのに、全ての三行詩を第一行と第三行で脚韻を揃えることができる語彙力と表現力にさらに驚いた。
分厚い文庫本3冊分の詩がすべて韻文とは、とても人間の仕業とは思えない。イタリア語文学の金字塔と言われる理由がよくわかった。
さくいん:ダンテ