6/12/2016/SUN
オルセー美術館・オランジュリー美術館所蔵 ルノワール展、国立新美術館、東京都港区六本木
日経新聞が今年企画する催事で、おそらく最も大きな展覧会。宣伝も派手にしている。最近、若冲展で大混雑の話を聞いていた。この展覧会も人の頭しか見えないくらいなら行くだけ無駄と避けていた。
美術館もそこまでの地下鉄の無料なので、人があまり多くなさそうな雨模様の午後、就労移行支援事業所での研修のあと、行ってみた。混んでいたら、出直せばいい。
地下鉄から外へ出ると、快晴。美術館までの道は「大原美術館展」へ来たときに覚えた。それほど遠くはないのに、汗ばむ陽気になってきた。
入場してみると、恐れていたほど混んではいなかった。
目玉の「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」と二枚の「ダンス」の前には、少し離れているがベンチがあり、端に座ると図録が読める。
一回りして、解説を読んでからもう一回り。
「ギャレット」に「ぶらんこ」の少女、ジャンヌが描かれていることに初めて気づいた。
この絵は、何となく綺麗だなと全体をぼんやり眺めているだけで細部を見たことがなかった。空もないし、画面の周囲は欠けていて、画面は外に広がっている。解説によれば、「ぎゅうぎゅう詰め」の画面でも、ごちゃごちゃしていないのは、緻密な計算により構図がしっかりしているから。
なるほど、言われてみると、画面を構成する要素はたくさんあるのに、近くで見ても乱雑には見えない。ベンチに座って遠くから見ると、点描画のようにさまざまな色が合唱するように整って混じっている。
全体の構図を優先して、細部ではデフォルメしたところもあるらしい。だから「何となく綺麗な」絵になっている。芸術の創造には、細部の手仕事と同じくらい、全体をまとめる構成も重要。
二回、回って、もう一度「ぶらんこ」の前に立つ。この絵が一番いい。少女が来ている白のワンピースと青のリボンの組み合わせがいい。先日は、トーハクの法隆寺館で金と青の配合を見た。やはり、青が気になる。
図録の解説によると、過剰な光と過剰な影の描写が当時は批判されたらしい。確かに展示で後にある後年の肖像画では、地面に映る影はずっと控えめになる。女性の肖像画は、印象派的ではあるけれど、光と影は誇張されていない。
でも、私を含めて現代の人は、過剰な色調をルノワールの魅力と思っているだろう。
展覧会の最後の部屋は裸婦の作品。ルノワールの裸婦画はあまり好きではない。どれも、ふくよか過ぎる。モデルも本当にこんな体型だったのだろうか。ルノワールがそういうモデルを選んでいたか、あるいは、彼の理想の女性像がそういうものだったのか。
そんなことを考えながら前の部屋に戻る途中、大人の女性の肖像画を見た。どの女性も二の腕が太く、胸も大きい、どっしりした体格をしている。
ふくよかな裸婦や、頑丈そうな大人の女性とは対象的に、ルノワールが描く少女はどれも線が細い。「自然さと率直さという無垢な青春のひとつの典型を、やや理想化された画面として表現する」と解説にもあった。
裸婦や女性の肖像画より、やはり、少女を描いた作品に惹かれる。本展では、ベルト・モリゾの娘を描いた「ジュリー・マネ、あるいは猫を抱く子ども」がよかった。
理想化された美少女。これを、最初の萌え画と呼んだら失礼か。
ルノワールは、少女に対して特別な思い入れがあったのだろうか。
日本でルノワールが格別に人気があるのは、「金髪で色白の美少女」が大きな理由の一つであるように思う。言うまでもなく、そこには西洋文化に対する憧憬と劣等感がある。少なくとも、私の場合はそう。
ルノワールの作品のなかでも、一番好きなのはワシントンDCのナショナル・ギャラリーで見た「踊り子」。初めての海外旅行ということもあり、興奮して原寸大のポスターも買った。
パリには2回行った。1989年の夏と1999年頃。最初は旅行で一週間ほど滞在した。オルセーとルーブルは2回ずつ行ったような気がする。オランジュリーには行っていない。
二回目は仕事でアンジェに行ったとき。取引先の人と一緒に週末を過ごしたのでTGVでパリを出て、初めてヨーロッパに来た人に街と美術館を駆け足で案内した。
オルセーとルーブルは大きすぎて、展示も多すぎて、記憶ははっきりしない。感動よりも前に、世界史の受験勉強で覚えた作品が実在することを一つ一つ確認するだけで終わってしまった。
今回は、一人の画家に焦点を合わせているので、じっくり見ることができた。会期が長いので、もう一度、行ってみようと思う。
もう一度、行こうかと思うのは、入場料も交通費も無料だから。絵を見ることが好きな私には、美術館療法は心を落ち着かせる効果が大きい。
さくいん:オーギュスト・ルノワール