硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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2014年3月


3/2/2014/SUN

Saving 10,000 Winning a War on Suicide in Japan(自殺者1万人を救う戦い)、Rene Duignan監督, Marc-Antoine Astier撮影、2013

この映画は、自死に関心をもっていない人に見てもらいたいと思う。日本での自死の実態を知るきっかけになるといい。

その一方で、すでに自死に関心のある人や、身近なに自死を経験したいわゆる自死遺族の人は見ない方がいいかもしれない。

この作品では、日本のマスメディアが自死について方法を詳細に報道したり、理由を詮索したりすることを批判している。ところが、この作品の中でも自死の方法や理由がかなり露骨に語られている。

この作品を見ることは、自死遺族にとってかなり辛いだろう。

この映画で語られていることの多くは自死に関心のある人や自死遺族はすでに知っていることであり、ことさら新しいものではない。やはり、知らない人々に知ってもらうための作品と考えるべきだろう。


この作品には続編があってほしい。題名は、“Healing 30,000 survivors”。

一人の人が自ら命を絶つとその人の近くにいた人は強い衝撃を受け、心に傷を残すこともある。一件の自死に対し、そうした強いショックを受ける、いわゆる自死遺族は、3人とも、4人いるとも聞いたことがある。

ということは、一人の人が、複数の自死を身近で見聞きして、二重三重の自死遺族になっていることも考えられる。

自死遺族がどのような苦しみのなかで生き残っているか。有名人の自死がセンセーショナルに報道される一方、ほとんど知られていない。

この映画のように、自死が無益であることを諭し、生きる意味を伝えることは重要であるに違いない。

同時に、自分が自死を選ばないようにするだけでなく、自分が自死遺族になりたくない、という気持ちをもつことができれば、死の淵で立ちすくんでいる人に声をかける勇気と、その人の言葉にできないに耳を傾ける優しさをもつ契機になるかもしれない。


3/3/2014/MON

夕べ、NHKラジオ第2放送で鷲田清一の講演を聴いた。

人は、自分の死を経験することはできない。死は、いつも自分以外の人の死であり、その意味では「死なれる」経験の積み重ねが人生とも言える。

死は、しかし終わりではない。死んだ人は、死者として生まれかわる。葬儀や喪には生者が死を越えて死者に生まれかわる意味をもつ

ときにこの変遷がうまくいかないことがある。話題の方向が変わった。

その先を聴きたかったのだが、どうやら眠ってしまったらしい。


3/15/2014/SAT

さよならの空(2005)、朱川湊人、角川書店、2012

物語は「いっぺんさん」と似ている。鍵は「復活」

でも、一つ、大きな違いがある。「いっぺんさん」での復活には贖罪と赦しがある。この作品では自責の念は赦しに昇華するどころか、恐怖心とともにさらに深い傷となる

自分が死に追い詰めてしまった人が甦り、目の前に立ち無言で自分を見つめている。これほどおそろしい状況はない。

赦してくれ—―その一言も、おそらく私は口にすることはできないだろう。

読み終えて、正直なところ、救われない辛い気持ちになった


3/16/2014/SUN

東大合格者の世帯収入は一千万円以上と聞いたのは20年以上前の代ゼミ、63B大教室。「いい講義をうけなければ、いい大学には合格らない」と宣伝していたのは古文の土屋博映先生

古文は土屋博映先生、現代文は田村秀行先生、そして世界史は山村良橘先生に教わった。

どの先生も、知識、入試のノウハウ、生徒に興味を持たせる「教える技能」、さらに「学ぶ楽しさ」まで、いずれをとっても、県立高校の教員とは比べものにならないほど優れていた。


この問題はうまく語れない。

高校生活が嫌で逃げ込んだ予備校で勉強することの楽しみを知った。

しかし、それは親の収入があってできたことだった。


自分が学歴を基盤にして高い収入を得ている、いわゆる新中間層であることを否定することはできない。子どもには、せめて中学卒業までは地元でさまざまな生活をしている人がいることを知ってほしい、と思いつつも、高額な費用の塾に行かせてもいる。

もし、世間で言われるところの「いい学校」に行けるのならば、将来、格差を縮める仕事をしてほしい、と願うしかない。


上の二つの段落は、Twitterに投稿したあと、何人かにRTされた。その理由はよくわからない。ここにも日和見者がいるという発見であったならば、そういうこともあるかもしれないとは思う。


3/27/2014/THU

「わかってほしい」という懇願。「なぜわかってくれないのか」という詰問。測り皿の反対側には、「わかってたまるか」という不信と「わかるはずがない」という諦念

こういう状態を「絶対矛盾的自己疎外」と呼んでいいものか。いずれにしても私には自己同一性が欠如している。

夜、ふと枕元に重ねてある文庫本から、高野悦子『二十歳の原点』(1971、新潮文庫、1979)を取り出して読む。

その一方で私は私のブルジョア性を否定していかなければならない。

陽に灼けて茶色になった40年前に印刷された文庫本を開いている。

すこし前、自分は高給を稼ぎ、子には教育を受けさせ格差を減らす職に就いてほしいと書いた。これこそ、隠しきれないプチブル性の本性だろう。


3/29/2014/SAT

Wearable Tech Expo in Tokyo 2014、朝日新聞メディアラボ、博報堂、TMC主催、東京ミッドタウン

ウェアラブル技術のシンポジウムへ行った。PCはモジュール化して、産業はアジアへ流れた。スマホでは独自システムに固執したためガラパゴス化し、世界市場で脱落した。ウェアラブルはどうか?

デザインやUI、基本的なUIから差別化が可能だから日本企業も活躍できるか? 薄利多売のファストファッションが隆盛しても、オーダーメイドのスーツがなくなってはないように趣味性の高いニッチなら成功するか? とすれば、気骨あるベンチャーを除いて大手家電メーカーには無理か?

一部のクリエイターのあいだでは仕事と趣味との境界線がなくなりつつあるという。職業で作っているものは有償で公開し、趣味で作ったものは無償で見せるような人がいるらしい。

こうした社会に対して、作家の冲方丁は悲観的に見ている。時間と資産に余裕のある階級は有閑を楽しむのではなく、何かクリエイティブなことをしなければならないという脅迫に怯えることになるのではないかと。


ロボット工学の遠藤謙とスポーツ選手の為末大の対話も興味深いものだった。義手義足が進化すると、陸上競技ではパラリンピックの記録がオリンピックを上回る日も来ると言われている。それが進むと身体を改造したサイボーグの大会とドーピング含めて身体に手を入れていない生身の人間の大会に分かれるかもしれないという。

機械化人間。まるで『銀河鉄道999』のような話。

どんな技術であっても、必ず人を幸福にするとは言えないし、必ず人を不幸にする技術というものもない。

自動車は足の不自由な人を遠くまで運べるようにした一方で、排気ガスと交通事故をもたらした。原子力のように人間にはまだ完全に制御することができない技術もある。結局は技術を使いこなすところにこそ人間の智慧がある、と言えば優等生的なまとめに過ぎるか。

夢物語も悲観的な未来図も聞くだけでは何にもならん。また「泥臭い」仕事にもどる。


イベントでは何人か、新しい製品を開発している起業家の人も登壇していた。

起業家というと一儲けしようとする山師のような人を想像する。会ってみると純朴な青年、という感じ。ITでもハイテクでもない起業がもてはやされては落ちぶれる代わりに地道な製造業の起業は脚光を浴びない。

だから、端からは向こう見ずと思えるほど素朴に夢を形にしようとする人しか残らない、この街の場合。

シリコンバレーの場合、と言っても何人も知ってるわけではないけれど、金と名誉への野心も、技術の知識と革新性も、それをさらに高めよう深めようという貪欲さと努力を厭わない一途さも、何重にもトンデモないレベルの人がいる。

あれは妖怪。近くにいるだけでなけなしのHPもMPも吸い取られる気がする。


3/30/2014/SUN

十二人の手紙(1978)、井上ひさし、中公文庫、2009

ふと思い出して、高校時代に読んだ、井上ひさし『十二人の手紙』を買いなおして読んだ。記憶に残っている以上に性や暴力の描写が多くて驚く。前に読んだときはそうは思わなかった。それとも、『デラべっぴん』と『EIGA NO TOMO』で、すでに性的な表現に慣れていたのか。伊藤整『若い詩人の肖像』は中学生のときに読んでいた。

ほかにも、中学三年生の頃、李恢成『伽耶子のために』や立原正秋『冬の旅』など、性に関わる場面の多い作品を近しい人に勧められて読んだ。それより前、小学生の頃、自動車雑誌の隅にあった官能小説をこっそり読んだこともある。

手塚治虫『アドルフに告ぐ』と『陽だまりの樹』もレイプの場面が多く、まだ子どもには薦めてない。時代の変化か、自分の感性の変化か、わからない。こういう作品は親に勧められて読むものではないのかもしれない。

井上ひさしは、よく読んだ作家に入る。中学三年の春に読んだ『ブンとフン』から『青葉繁れる』『吉里吉里人』『モッキンポット師の後始末』など。『自家製 文章読本』や『私家版 日本語文法』も楽しく何度か読み返している。


第三章「赤い手」を読んでいると、阿久悠作詞で北原ミレイが歌った「懺悔のねうちもない」という歌を思い出す。

性のほかにも、山形、宮城、カトリック、孤児院、夫婦の愛憎……。短編集でエンターテイメントの作品でありながら、井上ひさしの「源泉」と言えるような要素が散りばめられている。


日経新聞朝刊のコラム「春秋」が高野悦子にふれている数日前にTwitterで引用したばかり

いまの学生にも『二十歳の原点』を読む人はいるのだろうか。奧浩平『青春の墓標』、樺美智子『人知れず微笑まん』を読んだのは30年前、中学三年の頃

同級生で、これらの本を読んだという人に会ったことがない。そもそも友人が少ないし、読んだ本について話し合う間柄はほとんどいない。

家の本棚には、そういう本が並んでいた。誰かが置いていったから。


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uto_midoriXyahoo.co.jp