世界の艦船 2002年9月号 世界の空母 2002、海人社、2002


これまで航空母艦をもっていなかったフランスが、原子力空母シャルル・ド・ゴールを苦労の末、完成させたことは知っていた。知らなかったのはスペイン、インド、ブラジルも空母保有国であること。このリストをちょっと見るだけでも、「普通の国は空母くらい持たなければ」と政府要人は思うのかもしれない。

軍事力は総合力。艦船などのハードウェアだけでなく、訓練された兵士、吟味された戦略、行き届いた整備などソフトウェアがそろってはじめて意味がある。最近読んだある記事でも、空母をもつために最も重要なのは、非常に難しい着艦ができるパイロットを育成、維持することだと書かれていた。米国は正規空母を12隻保有している。このことは、米国は船をたくさん持っているだけでなく、それらを効果的に活用できる能力も維持していることを意味している。

フランスはあまりに高い建造費に二番艦を断念したらしい。空母を一隻だけ保有する意味はあるのだろうか。一隻しかなければ、最重要軍艦である空母がいるところが戦略地域で、いないところは手薄だと言っているようなものではないか。同じ費用をかけるならば、小さい艦船を多数もっていたほうが効果的な防衛力になるのではないだろうか。

空母には、軍事的象徴という存在意義があると言われるかもしれない。しかし、それこそ究極のソフトウェアであって、天文学的な巨費を投じても得られない。軍事的象徴は、軍人が遂行する「国を守る」という崇高な任務に対する国民からの敬意に根ざすものではないか。戦前生まれの人々が「軍人さん」というとき、そこには近寄りがたさとともに、たいへんな仕事をしているという敬意も込められていたように思う。それがなければ巨艦もただの鉄の箱。軍事という国家の根幹に関わる政策が、いわゆるハコモノではあまりにお粗末で、頼りない。

そこまで考えてから、日本国の自衛隊が誇る最新鋭輸送艦「おおすみ」「しもきた」を見る。「おおすみ」級は著名な軍事年鑑の分類では空母に属する充分な大きさをもっている。それでも、全通甲板をもちながらジェット機の発着もできない、搭載ヘリコプターも少ない本艦は、憲法論議と外交、あるいは外圧に揺れた妥協の産物としか言いようがない。軍事力というきわめて限定的な意味合いでみても、本艦の能力は帯に短し襷に長しの誹りは免れない。

それ以前に、この船に乗り過酷な訓練と任務をこなす人々は国民からそれに値する尊敬を受けているだろうか。それは憲法を改正して隊を軍とすれば後からついてくると言われるかもしれない。軍の名称と軍人への尊敬は鶏と卵の関係であり、鶏を飼えば卵が生まれるということは、論理的にはわからないことではない。

それでは、この船によって守られる「国」とはいったい何なのだろうか。いかに観念的という謗りを受けようとも、その議論が卵となるべきであり、その答えは空母を鶏にしても生み出されない。憲法九条は、まさにその議論の根源へ遡る条項として書かれていたはず。憲法論議はこの出発点でボタンを掛け違えてしまうと、永遠に議論にならない。

普通の国ならば空母くらい持つべきである。その通りと思う。それでは普通の国とは何か。空母を持つべきだと唱える人のなかには、日本国は普通ではない、普通以外か普通以上の、特別な国であると主張する人もいる。

それこそ、神が守ってくれるような特別な国ならば、空母どころか銃さえいらない。


碧岡烏兎