硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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2010年12月


12/4/2010/SAT

明治維新の舞台裏、石井孝、岩波新書、1975

明治維新の舞台裏

NHKテレビの大河ドラマ『龍馬伝』が終わった。今年ははじめて、家族四人で一年を通して大河ドラマを見続けてきた。

最後まで見ることができたのは、ストーリーや登場人物がわかりやすかったおかげもある。幕末維新史というと、とにかく登場人物が多くなり、わけがわからなくなってくる。

その点、今回の大河ドラマは坂本龍馬と岩﨑弥太郎の二人に焦点を絞っていて物語としてはわかりやすかった。小学校高学年や中学生にも怒涛のような数年間の大筋は見えたらしい。次は手塚治虫の『陽だまりの樹』を奨めようと思う。

二人に焦点が絞られている分、脇役たちは魅力的な人物や役者がいても、深くは入り込まないので、気になる人物や事件を毎週パソコンで検索しながら見た。

『龍馬伝』を見ていて驚いたことが二つ。一つは、とにかく皆若い。20代半ばから30代半ばにかけての十年にも満たない時間に身分が変わり、所属が変わり、思想が変わり、周囲も変わる。自分がその年齢を過ぎているので余計に若い人たちが世の中を変えていく力には驚いた。

もう一つは、やたらと切腹すること。坂本龍馬は剣術の達人でもあり、そういう意味で生粋の侍だった。ほかの武士たちは、鎖国太平の世では戦士というよりは役人だった。ところが、天下泰平である反面、硬直した時代では「武士」という身分、体裁だけが残り、何かあれば「切腹」ということになる。「切腹」だけが武士の体面を表すという皮肉。商人から武士になり切腹で人生を終わらせた近藤長次郎を見ていると、終わり方だけ武士の作法を押し付けられているようで気の毒に感じた。


大河ドラマが見ているあいだ、手元にあるのに読めないままでいた古い新書を手にとって読んでみた。

『明治維新の舞台裏』を読むと、書名通り、龍馬を筆頭にした若い「日本人」が新しい世の中を作っていく大河ドラマを表とすれば、その裏側で何が起きていたのか、世界史的な視点から教えてくれる。

確かに大政奉還から明治維新にかけての出来事の多くは国内の出来事であり、国内の人々が事件の中心になっていた。しかし、その裏側では幕府を支えたフランスと薩長に手を貸したイギリスの対立があった。興味深いことは、中国ではヨーロッパの列強と清が直接対決した結果、香港にはじまり、租借という名の植民地が侵食していった一方、日本に対しては英仏ともに表に出ることを避けて、要所要所で手ぐすを引いているにも関わらず、あたかも「日本人」自身が事を運んでいるかのように思わせていたこと。

この違いはどうして起きたのだろう。清朝では皇帝という一極の大権が存在しながら、もともと漢族ではなく、領土が広いために地方のすみずみまで皇帝の権力が行き届いていなかったために、外圧に対して脆かったということがあるかもしれない。日本では幕府と天皇という政権の二重構造が存在したため、尊王にしろ佐幕にしろ、ある程度のナショナルな一体感があったのかもしれない。だから英仏はあえて幕府と直接対決する必要はなく、後ろに控えたまま政権を意のままに動かす戦略を選んだのかもしれない。

ここまで書けば、先は言うまでもなく、現在でもこうした外圧による国内政権の操作や攪乱は続いている。例えば沖縄県の米軍基地は日本国民が欲してそこに存在していることになっている。そのほうが米国にとっては都合がいい。

それでは、坂本龍馬をはじめとした幕末の志士たちは列強の振付に知らず知らずに踊らされていただけなのだろうか。そう言い切ることも簡単ではない。とはいえ、彼らが自分たちの意志でしていると思って行動していたことが結果的には列強の思うツボだったということは後知恵で見ればなおわかる。

日米安保の闘争にしても、太平洋戦争の開戦にしろ、また日清日露の戦争にしても、自覚的に、あるいは主体的に行動したことがかえって相手側の謀った方向に転がっていったという事態が、日本の近現代史には少なくないように思う。


さくいん:NHK(テレビ)手塚治虫中国


12/11/2010/SAT

記憶について

以下、8月28日に書いた文章のあとに書いてあった断章。少しだけ手直しして植えてみる。


記憶とは、一本の樹木のようなものかもしれない。

こんな、誰にでもあるような、ありきたりで、たいしたことはなにもない、初恋とさえ呼べないような思い出をいつまでも覚えているのはどうしてだろう。

ほかのひとなら、笑い話か、なつかしい話の一つにしてしまっているに違いない。

でも、私の場合は違う。

一つの思い出、とくに十代のころの思い出は、一つの出来事がまた一つの出来事を思い出させ、洪水のように襲いかかってくることがある

広島原爆のドキュメンタリー番組を見た。被爆者たちは被害者ではなく、被験者として検査の対象にだけされ救済の対象にはされなかった。しかもその検査には日本政府が深く関わっていた。日本国民の安全よりも戦勝国との関係を重んじたから。

その番組を見てから、二階に上がり、片づけられないまま積み重ねてある本の山から『くるまの色は空の色』(あまんきみこ)を手に取った。何度も読んだことのなる「すずかけ通り三丁目」を読むと、何とも言えない気持ちが胸にこみあげてきた。どうしてだろう?

十代のころの記憶に残っているさまざまな出来事は細い糸でつながっている。ちょうど樹の枝が高く、遠くまで伸びているように

そよ風が吹いただけで、葉が揺れ、枝が揺れ、幹の奥深くまで揺さぶられる。それは、なぜだろう?


結局、だれもわかってくれはしない。そう思ってしまうことがある。

だれかにわかるように説明することもできない。そうも思う。

あの頃、見つめていた少女たちのことがいま、恋しいわけではない。そして、あの頃がなつかしいわけでもない。むしろ、あの頃は忘れさりたいくらい

それでも、それなのに、あの頃の出来事の、一つだけを思い出してみても、なぜだか胸が詰まるような気持ちになる。

あの時間は、あの季節は、あのひとときは、いったい何だったのだろう。


それにしても、こんな気持ちをこんな風に書けることは何カ月ぶりだろう。

しばらく、心に蓋をしていたのかもしれない。職業が多忙で切迫していたから。職業も大事であることは間違いない。そのことも、もっとまじめに考える必要がある、もう惰性で続けられるような年齢ではない、それはわかってる。

感傷は、現実逃避で主観主義で個性がなく、「たいていの場合マンネリズムに陥って」いて、「常に何等かの虚栄がある」。

三木清が感傷について書いたことに異論はない。その通りと思う。

まだ精神生活を取り戻したとは言い難い。でも今は、こうしてセンチメンタルな自分が戻ってきたことをすこしうれしくも思う。


さくいん:広島あまんきみこ三木清


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