硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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2014年2月


2/2/2014/SUN

餃子をつくる

昨夜は餃子をつくった。しばらくサボっていたので、夕飯を作るのはおそらく今年になって初めて。

餃子を作る時は、いつもオフコースBilly Joelを聴きながら。テーブルには冷えたグラスに注いだビール。私だけの静かな「心の底から悲しむことができる幸福な時間」。

先週はすこし調子がよかった。調子がいいだけではなく、いい状態をしばらく維持できている気がした。

落ち込みそうになるとき、それを少し離れて見つめることができているように思えた。

それは、思い違いだった。自分を客観的に見ることができているように勘違いしていた。よく考えてみると、流されるように現実に追従し、自分の行動を自分自身の責任と無関係なものにしていただけだった。

昨日も、夕方には料理をするつもりになるほど回復していたとはいえ、昼前に餃子の材料を買いに出かけた後はずっと夕方まで寝ていた。


、自分の使命と思っているいくつかの責務を果たしたら、もう「死なないでいる理由」なくなるだろう

そのとき、新しい使命、別の「死なないでいる理由」を見つけることができたなら、別の考えも浮かぶだろうか


2/8/2014/SAT

かないくん、谷川俊太郎文、松本大洋絵、糸井重里制作、東京糸井重里事務所、2013

仕事の途中、乗り換えた駅の書店で表紙を通りに向けている本書を見かけた。帯の言葉に誘われて読みはじめた。

これでいいのかな?というのが読み終えての正直な感想。谷川俊太郎はかつて「生きる」という詩で、「あなたの手のぬくみ/いのちということ」と書いた。新しい絵本では死は携帯電話で伝えられる。

谷川は、マイケル・ローゼン『悲しい本』を訳した。そこに描かれた死を受け止める心は、悲しみだけでなく怒りさえも抱えこんでいた。対して、この絵本で描かれる死には遺体も悲嘆も悔恨もない。

訃報は遠い所で携帯電話で受け取り、葬儀もなければ火葬もない。墓もない。にもかかわらず、「新しいことがはじまる」予感がする。

そういうものなのか?  それでいいのか?

「天寿を全う」「大往生」。そういう言葉があることは私も知っている。それでも、どんな死であれ、残された者に悲しみや悔しさをもたらす、と私は思う。そうした気持ちを抑えて日常生活に戻るために「天寿を全う」したと自分自身に言い聞かせるのではないか。

読み終えて残る違和感は『悲しい本』と同じときに読んだ『岸辺のふたり』のときに似ている。


2/9/2014/SUN

2月最初の金曜日


2月、最初の金曜日。「あの日」から数えると今年は34回目、記念日としては33回目。今年は故郷で過ごした。

故郷といっても遠いところではない。職場からみるとたどり着く時間は自宅とさほど変わらない。最近は80歳を過ぎた両親の様子を見るために、月に一度、金曜日の夜に行く。夕食を馳走になり、酒を呑み、昔話を聴き、一晩泊まる。

以前は休みをとって一人で過ごすことが多かった。この数年は仕事が忙しく、休みはとってない。今年はちょうど10日を挟んで飛び石連休だったので10日を休みにして4連休とした。両親の家には二晩泊まった。

大雪で出かけることもできず、本棚から何度も読んだことのある漫画を出してきて読んだり、古いアルバムを見たり、のんびりと過ごすことができた。

まっすぐ帰るのは何となくもったいなくて、鎌倉へ出て江ノ電に乗った。鎌倉高校前駅で下りて、しばらく相模湾と江ノ島を眺めていた。

ここへは、2003年の2月最初の金曜日にも来た


どこにいて、何をしたのか、そこまではこうして書いてみた。何を思い、何が心に残ったか、今すぐには書けそうにない。


2/16/2014/SUN

人生で、これまでの選択すべてが間違っていたように思ってしまう。

年齢を重ねるごとにその思いは強く、深く、なっている。なぜだろう。

その時その時、その場その場では、自分なりに考えて、最善ではないにしても最悪の選択は避けてきたつもり。運に恵まれたと思うことも少なくない。

それでも、過去を振り返ってみると、ある時、それもかなり若いときに、まったく間違った道を選んでしまい、それ以降は、何をしてもただ霧深い森のなかを彷徨っているだけのように思える

何か新しいことをしようという気持ちがまったくない。

何か目標を立てて、それに向かって努力しようという気持ちもない。

これが病気なのか。私がそういう人間なだけではないのか。

薬を飲んで治るようなものにはとても思えない。もちろん、酒を呑んでも何も変えることはできないこともわかってはいる。

しかし……。愚痴を書くのはやめよう。明日からまた仕事がある。眠ろう。


2/23/2014/SUN

つきよは うれしい(1986)、あまんきみこ文、こみねゆら絵、文研出版、2011

久しぶりに絵本を読んだ。毎晩子どもに絵本を読み聞かせていた「あの頃」はすでに遠い。

長い本を読む集中力がないので、前に読んだ絵本を読み直してみるつもりで、図書館で絵本の棚を前を歩いていて本書を見つけた。

原作は1986年。こみねゆらが絵を添えた絵本版は、私がもう絵本を読み聞かせなくなってから出版されたもの。


不思議な、謎の残る物語に思えた。最後のページは言葉も絵も謎めいている。でも、ネットで見るかぎり、結末を謎ととらえている人はいない。

最後のページを眺めながら、私は、あまんきみこの作品のなかでもとくに気に入り、繰り返して読んでいる「すずかけ通り三丁目」や「星のタクシー」を思い出していた。

それから、なぜか、ハンバート ハンバートの「おなじ話」が聴こえてきた。


つまり、謎とは、ようくんはほんとうにいるのだろうか、ということ。

ようくんは、松井さんだけに聴こえた、「すずかけ通り三丁目」の楽しそうに笑う子どもたちの声や、「星のタクシー」の家族のなごやかなおしゃべりと同じように、あこちゃんにしか見えない存在ではないのか。

そして「おなじ話」でそうだったように、何度も何度も会っているような気がするのに、そうして「ずっとそばにいるよ」と言ってくれても、朝になると、「さよなら」と一人つぶやかなければならないような相手ではないのか。

なぜ、教室でようくんは一番後ろに座っているのか。ほかの生徒にようくんは見えているのか。

ようくんが手を振っているのは「あなたはもうあなたの世界に戻った、これでお別れ、さよなら」と言っているからではないのか。

そういえば、あまんきみこ作品には『ちいちゃんのかげおくり』という物語もあった。


私の読み方が間違っているのだろうか。でも、私にはそうとしか思えない。

こみねゆらを絵を眺めていて、『雨ふり花 さいた』『星に帰った少女』を思い出したからだろうか。

それとも、2月の気分がそう感じさせているのだろうか。


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uto_midoriXyahoo.co.jp