神代植物公園のベゴニア

エッセイ集『犬のしっぽを撫でながら』を読み、小川洋子の巧みな文章と柔らかな文体に惹かれた。彼女が小説家であることは知っている。私は小説よりエッセイを好むので、彼女のほかのエッセイ集を探して図書館から借りてきた。

作家の町屋良平は、小川洋子のエッセイの肝は「自己に対する謙虚な眼差し」にある、と日経新聞の書評欄で書いていた。この評価は的を射ている。私も同意する。

彼女の謙虚さはどこから生まれているのか。

彼女の書く文章は十分に魅力的で面白い。読んでいると穏やかな気持ちになる。それだけではない。笑わせる表現もあれば、読み手に考えを促す文章もある。彼女の文章には、何か秘密がある。


小川洋子は非常に不思議な作家。格別変わった経歴の持ち主でもなく、何かの専門家でもない。外国語も得意ではないようだし、これといった特技もない。

しかも、彼女自身の告白によれば、極度の心配性で、人見知りで、出不精で、方向音痴で、昼寝好きで、手先が不器用でもある。こういう人が思わず引き込まれる文章を書いてしまうのだから、不思議でなくて何だろう。

でも、実はここに、作家、小川洋子の秘密がある。彼女は読書界の趨勢とは反対の方角を向いている。

今、世の中には「これだけでできる」「オレのようにやればオレのように成功できる」、そんな本が溢れている。

かと思えば、研究者が専門分野以外の話題について訳知り顔で書いた本もよく見かける。エッセイなのか専門書なのか、よくわからない本も多い、もちろん、悪い意味で。読書界は自信過剰な本に埋もれている。

小川洋子はそういう潮流とは縁がない。説教がましいことは書かないし、知ったかぶりもしない。感受性と想像力、そして、それを柔らかく、謙虚な文体で表現する文章力。そこに、小川洋子の魅力の源泉がある。誤解をおそれずに書けば、それだけを頼りに書いている、と言ってもいいかもしれない。

派手な経歴を後ろ盾にしたり、該博な知識をひけらかしたりしないし、思いつきで政治や社会に物申すこともしなければ、身勝手で不気味な自己陶酔とも無縁。そういうことは一切しない。そういう意味では、小川洋子は現在の読書界で、極めて稀有な存在と言える。

「小説とはかくあるべし」という箴言めいた言葉もないことはない。ただし、その言葉は自己に向けられており、ほかの作家に論争を挑んだり、物書きになりたい人へ向けて説教しているわけではない。

ついでに書くと彼女の小説観が興味深い。小説を書くとは創作、造り出すものではなく、見つけ出すもの、そう何度も書いている。物語はすでにある、世界のいたるところに。目を凝らして、耳を澄まして、その物語を見つけ出す。それが小説家の仕事という。自然のなかに音の調和を見出そうとしたバッハの音楽に対する考え方にも通ずるところがある。

日常生活の小さなことに感動を見つけ、それを想像力で大きく膨らませ、膨らんだ空想を的確な言葉を選び表現する。小川洋子のエッセイは、題材は何であれ、皆、こういう構成になっている。


もう一つ、彼女のエッセイを読んでいてわかることがある。それは彼女が心から本を愛しているということ。

小川洋子はたいへんな読書家であることは間違いない。あるいは詩人、荒川洋治の言葉を借りて、「愛書家」というべきか。エッセイにも、幼い頃に親しんだ絵本から最近手にした翻訳本まで、さまざまな作家の作品が登場する。それらの本を紹介するとき、彼女はまるで昔からの親しい友だちを紹介するように、その魅力について愛情を込めて熱く優しく語る。とりわけ『アンネの日記』について書くとき、彼女は特別な愛情をもって語る。愛読書とは、こんな風に親密に付き合える本のことなのか、と感心することしきり。

彼女の空想のなかでは本と本とが会話し、知らない作家と作家が食卓を囲んでいて、そこに彼女自身もいる。そういうことが、まったく違和感なく文章で表現されている。平凡な日常世界が文章を読んでいるうちにいつの間にか不思議な世界に引き込まれている。

読むことと書くことが大好きで、本の世界を心から愛する人。

毎日の暮らしの中の何気ない出来事から始まる彼女のエッセイは、日本文学の伝統を継ぐ随想、あるいは随筆と呼びたい。エッセイと呼ぶよりも、その方がこれまで読んできた彼女の文章の魅力をうまく言い当てているように思う。


さくいん:小川洋子バッハ荒川洋治