読書のすすめ 特別版、岩波文庫編集部編、岩波書店、2003


岩波書店が「私の好きな岩波文庫」というアンケートを募集していたことじたい、知らなかった。今年初めに募集され、結果をもとに販促活動が繰り広げられているらしい。書店の特設コーナーに置かれた無料冊子を手に取った。執筆者は池内恵、香山リカ姜尚中齋藤孝斎藤美奈子、立花隆、藤原正彦、船橋洋一ら。その多くは私も読んでみたことがある。こうした売れっ子の文章が無料で読めると、それだけでも得した気分。

内容は面白いものとそうでないものとが半分ずつくらい。相変わらず、読書至上主義に立つ人や、あいまいな「日本人」をふりかざしては多文化社会への無理解を露呈させている人もいる。面白かったのは、立花隆と斎藤美奈子。

立花の文章は少し意外だった。このところ多少の胡散臭さも感じていたところ、今回掲載されている「非<読書のすすめ>」では、「私の好きな岩波文庫」という企画自体を徹底的に批判していて痛快。曰く、回答者はおそらく高齢者に傾斜しているから若者には直接利益がない、百点中漱石ばかり七点は異常、長編の古典がほんとうに読まれているか疑わしい、現代の教養には古典読書以外に必要なこともある、などなど。これを掲載した編集部も懐が広い。

斎藤美奈子は、いつもどおり「邪悪な読者」ぶりを遺憾なく発揮。ぜひ読んでおきたい一冊に『岩波文庫解説目録』をあげる。目録を眺めていれば、いつかは読みたいと思うようになるから。

たとえ実際には読まなくても「いつか読もう」「こんど読もう」と「思う本」があるとないとでは大ちがいなのだ。

荒川洋治も、「文学全集がある家」という表現で似たようなことを述べている

斎藤は、「『人生を変える』のはやっぱり生身の体験で、本はしょせん本なのだ」とまで言いきる。この点は、立花とも共通する意見。もっとも「生身の体験」が読書という体験ということもありうる。ただし読書が「生身の体験」になるためには、香山リカが書いているようによほどのめりこむような作品か、藤原正彦が実践しているように本を媒介にした濃密なコミュニケーションが必要になる。

自己投影できたり、寝食を忘れて没入できるような作品との出会いはそう多くはない。また、藤原の「読書ゼミ」のような懇切丁寧な読書指導にも、めったに出会えない。たいていは名作リストが渡されるだけ。あるいは、それにせいぜい「すばらしい」「人生を変える」「元気がでる」など、ありきたりな寸評がつくだけ。ひどい場合は「二十歳までに読め」「日本人必読」「これに感動しなければ、生きている意味がない」と脅迫まがいの文句。

そんな「読書のすすめ」は信用できない。信用すべきは、自分と本との相性、自分と本との出会い。立花の正論。

よき人間関係が、結局は出会いの問題であるように、よい本との付きあいも、結局は出合いの問題である。付きあう人間はあまり取っかえ引っかえするわけにはいかないが、本の場合は、付き合う相手をいくら取っかえて引っかえしても、誰のひんしゅくも買わないから、これはと思う本に出会うまで浮気のかぎりをつくすのがよい。

本は本だけでは何にもならない。本にめぐりあう機会があり、実際に本に触れる読書があり、読後に考える思索と、誰かと話し合う対話がある。そうした本をめぐる自分自身や他人との関わりがあって、はじめて本は本として意味あるものになる。本は栄養剤のように読むだけで糧になるようなものではない。

本は、コミュニケーションの小道具。仏文学者、奥本大三郎は「本ばかり読んでものを考えないと、とんと、ロバに本を積んだようなことになる」というモンテーニュの言葉を紹介している。読んで考えるだけでも足りない。考えたことを行動に移す、考えたことを誰かと共有する。

本は、いろんな野菜の種を入れた袋のようなものかもしれない。蒔いて、育てて、花を咲かせて、実らせて。食べられるようになるのは、ずっとずっと先になる。

どんな種がどんな実を結ぶのか、種を見ただけでは分からない。立派な種が立派な実にならすとも限らない。育て方でも変わってくる。本書のような小冊子にも、思いがけない種を拾う。池内恵の文章を知ったのは、収穫。「ルバイヤート」の名前は知っていたけど、これまで読もうと思うことは一度もなかった。彼の文章に誘われて読んでみたくなった


碧岡烏兎