『生きることと考えること』は、森有正の思想を学ぶための最良の案内書といえそう。そう思うのは、思想家自身による案内であるためと、思索の途中報告ではなく、見出された思想に対する総合的な解説となっているから。
『生きることと考えること』は、森自身による一連のエッセーに対する解題として読むことができる。重要なのは、森が個人的な事情と書かれたもの、すなわち生活と思想とを慎重に分けていること。
ある人物の人生と思想を切り分けることは容易なことではない。生活と書かれた内容が密接に関連していればなおさら。読者や研究者は、思想の由来や根拠をつい個人的な事情に求めてしまう。その結果、思想をある体験や境遇から生まれた特殊なものや矛盾したものと考えてしまうことがある。
森は、ある講演で「人類の経験」ということを述べている(CD『思想の源泉としての音楽~新しく生きること』フィリップス、1978)。個人個人は固有で特殊な体験をするけれども、それを突き詰めてとらえなおすことにより、人間の普遍的な「経験」となると考えている。その考えに従えば、森のエッセーは、森有正という個人の体験に由来するとしても、それを深化させ析出した普遍的な思想の表現と言える。
この点が森思想の要諦でもあるから、森は講演や対談においても、自らの体験と自らの著作や思想とをはっきりと分けている。だから自著の引用をするとき、きわめて客観的に解説がされるし、体験談はあくまでも挿話として紹介される。峻別できるということは、それだけ彼がたどりついた思想がもつ普遍性の高さを示しているとも言えるだろう。
峻別するということは、実生活と思想の間に関係がないということではない。両者には密接な関係がある。その意味では、峻別されているというより、よく整理されていると言ったほうがいいかもしれない。つまり彼は、思想として書くべきこと、体験として講演で話すべきことをよく整理している。
彼は体験と思想だけでなく、それらと信仰をきちんと分けて考え、話し、書いている。森は信仰をもたない者に対して寛大で、信仰を同じくする者に対してより厳しい。それは「いかに生きるか」をはじめとする教会で行われた講演や、キリスト者との鼎談『現代のアレオパゴス』などから得られる印象。あるいは信仰について話すとき、信仰のない者は完全に彼の視野から捨象されているというべきかもしれない。
いずれにせよ、彼は講演や対談では誰が相手であるのかをよく注意している。言い換えれば、講演や対談は普遍的な思想をめざしてはいない。また彼は、鼎談のなかで「私がいちばん言いたいことは書くことにしています」と述べている。このことからも、講演や対談は彼の思想へのあくまでも案内書であり、思想そのものは書かれた著作以外にはないことがわかる。
とくに信仰に関わる講演は、彼がたどりついた思想とは、根本的には別な問題として受けとめたほうがいいように思われる。あるいは、そう受けとめてもいいと言うべきかもしれない。建築について語るとき、立てられている土地は重要ではあるが、建築そのものを語るためには、土地の性質を過度に意識する必要もないのではないだろうか。
パリに定住して15年が過ぎた1966年から、森は定期的に帰国し、大学での集中講義や教会での講演を積極的に行うようになった。その一方で、定住先のパリでも以後、日本館館長として対外的な職務に精を出し、オルガン演奏も精力的に行いはじめた。それは厳しい思索を間近で見ていた辻邦生などには、思索の休止とも映ったようだ(辻邦生「ある生涯の軌跡」『森有正 感覚がめざすもの』筑摩書房、1980)。実は、辻も後に認めているように、それは休止ではなく、完成だった。
パリへ移り、思索と旅を通じて森の感覚は経験へ深められ、ついには思想へ実を結んだ。思想を見出したら、どうするか。もはや思い煩うこともなく、旅を続ける必要もない。ただ生きればいい。あるいは次のように言えるかもしれない。
森は長い間、考え、旅をするために生きた。そして生きる意味を見出したとき、彼は生きるために考えはじめ、旅をしはじめた。その具体的な行動が日本館館長就任であり、大学での集中講義であり、数多くの教会での講演、対談、そしてオルガン演奏だったのではないか。
そのように考えると、森にとって1966年の帰国は、単なる肉体的な帰郷ではなく、魂の凱旋だったと言えるかもしれない。『バビロンの流れのほとりにて』の冒頭、「僕」はM家の墓を前にして、そこへ決定的に戻ってくるだろうと予感した。エッセーの展開がどうなるのかは、まだわからない。少なくとも晩年の講演や対談を読んで言えるのは、森有正個人は墓へと決定的に帰る前に、帰るべきもう一つの場所である「日本」を彼なりに突き止め、そこへ帰って行ったということ。
精神的な帰国を果たしたからこそ、彼はパリに定住しつづけ、言ってみれば、そこで安心して肉体的な死まで居続けた、とは言えないだろうか。居続けたとは、死を覚悟したというのではない。死を恐れるがゆえに死に向かい合った。それを可能にしたのは、思想を見出した精神と信仰に捧げられた魂ではないだろうか。死後、森の遺骨は確かに森家の墓へ決定的に帰っていった。しかし死後の肉体的な帰還は、キリストに捧げられた魂にとっては、もはや意味がないだろう。
彼がたどりついた「日本」とは何か。森にとって日本は象徴的。象徴的であって同時に具体的。一つの具体例をもって彼は日本を象徴する。それが晩年、彼が執拗に繰り返した日本語の二人称問題。これについては、もう少し考えをまとめてから、いずれ別な場面で考えてみたい。
パリの街へいくとき、一度目は案内書を頼りに、観光名所をまず見てみたい。他人には愚かに見えても、まずルーブルがそこにあることを確認してみたいもの。二度目は自分の足で、できれば案内書のないところを歩いてみたい。これから、彼の文章を読み続けるのは、そんな気持かもしれない。
2017年8月20日追記。
『いかに生きるか』に山形孝夫が解題を添えていることに気づいたのは彼の著作『死者と生者のラスト・サパー』を読んでから、ずっとあとだった。
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