アリの街のマリア――北原怜子の生涯、酒井友身、女子パウロ会、1988


アリの街のマリア

図書館の除籍資料、いわゆるリサイクル文庫で見つけて、もらってきた。

医者になる能力のある人が、医者になって世のために尽くすことは素晴らしい。でも、それはある意味で当たり前のこと。あえて賞賛するほどのことではないかもしれない。


それでは医者にもなれるような人が、医者にならず、社会的にはもっと微力な奉仕者として働いた場合はどうだろう。賞賛に値するだろうか。それとも能力を充分に活かしていないと、非難されるべきなのだろうか。

本書は、偉人シュヴァイツァーとはまったく異なる仕方で天啓を受けとめた、ある女性の伝記。シュヴァイツァーは、もともと著名な学者で音楽家でもあった。啓示を受けて彼は医者となりアフリカへ渡った。彼は病院を建て、自分の名前をつけた。そして彼はノーベル平和賞を受賞した。

北原怜子は裕福な家庭に育ち、優秀な学生だった。彼女であれば、専門的な職業について社会のために働くこともできただろう。医師や教師にもなれたかもしれない。にもかかわらず、彼女は豊かな暮らしを捨て貧民街で一奉仕者として一生を過ごした。


彼女は何か新しい運動を始めたのでもなければ、新しい組織をつくったのでもない。すでにある団体の片隅で、何の肩書きもなく働いた。

だから、本書はいわゆる偉人伝ではない。彼女自身が何かを成し遂げたわけではないから。それどころか、物語が高潮を迎えるのは、病気に倒れ何もできない彼女がただ存在するだけで周囲の人々を変えていく場面。

もっとも、彼女は本にまでなっているのだから、まったく無名というわけではない。一般には知られていないけれども、カトリックの世界では著名で、聖人に推されてもいると聞く。いずれにしても、この有名になる、名もない一人でいる、という両極の立場を北原怜子は生涯、揺れ動いた。その苦悩を経て、彼女は死後伝記になるような生涯を歩んだ。


ほとんどの人は、ほんとうに無名のままで、社会的な功績も世俗的な名誉も宗教的な顕彰もなく亡くなっていく。人は生きて何を残すのだろうか。そもそも、人は生きて何かを残すものなのだろうか。

人はみな草のごとく、その光栄はみな草の花の如し。

本書にも引かれているこの言葉を知ってからもう20年近くになる。未だにその意味がわからない。


碧岡烏兎