シュヴァイツァー(伝記 世界を変えた人々7)、James Bentley、菊島伊久栄訳、偕成社、1992

アフリカのシュバイツァー、寺村輝夫、童心社、1978


シュヴァイツァーについて、彼に対する賞賛も非難も、これまでほとんど知らずにいた。だから両極端に描かれている二冊は、それぞれに驚くことばかり。とくに寺村輝夫は「おしゃべりなたまごやき」(長新太絵、福音館、一九七二年)をはじめとする「王様シリーズ」の童話作家としてしか知らなかったので、強い批判意識をもって書かれた本書に、新たな一面を知った。

シュヴァイツァーの西欧中心主義、白人中心主義を基底にする偽善性を一つ一つ暴いていく展開もすさまじいが、圧巻はその激しい批判が日本国の偽善と、そこに暮らす自分自身へ向けられていく最終章。導入部の挿話が、最終章で大きな意味をもつ伏線となっている構成も強い印象を残す。緊迫したドラマとなっているのは、シュヴァイツァーを描く伝記としてだけではなく、寺村が「アフリカ」と「大日本帝国の植民政策」を体験していく内面的な記録して書かれているからだろう。

シュヴァイツァーの伝記を読んで私が強く印象づけられたのは、途方もない使命感。シュヴァイツァーは三十歳にしてすでに文学博士であり、神学博士でもあり著名なオルガン奏者であった。にもかかわらず、そのいずれも神の声に応える道ではないと彼は感じた。社会的にも、また宗教上や芸術的な面からも充分すぎる力量とそれを発揮する立場を得ていたのに、彼はそれではあきたらず、未知の土地での奉仕というまったくそれまでの生活と関係がない道を選んだ。この転換は、常識の範囲で理解するのはむずかしい。

それでも神からの啓示という説明をすれば、人生の大転換も理解できないことではない。私が疑問に思うのは、なぜ彼は医者になったのか、つまりなぜ一奉仕者としてアフリカに向かわなかったのか、ということ。

寺村がアフリカ史をふりかえりながら説明しているように、当時、アフリカにはすでに多くの宣教師が渡っており、医療活動もまったくなかったわけではない。だからアフリカで奉仕することが目的ならば、そうした団体の一つへとただちに飛び込んでも構わなかったはず。しかし、シュヴァイツァーはそうしなかった。

彼は、医学部へ入りなおし、何年もかけて医学博士となり、それからアフリカへ向かった。彼は既存の団体に所属するのではなく、自らの病院を建て、後にはそれを中心に自らが経営する村を一つ作り出した。

こうした強い自己中心性は、シュヴァイツァーのキリスト観とも関わっている。彼はイエスはただの人間であったことを論証したうえで、ただの人間でさえあれだけの奇跡を起こすことができたのだから、自分でも超人的な行いが可能であると信じていたらしい。その意味で、彼はアフリカでキリストになりたかったと言っても、言い過ぎではないかもしれない。

シュヴァイツァーは名もない一奉仕者とはならなかった。名のあるオルガニストは、名のある医者になった。このように見ると、彼の人生は大きく転換していたわけではない。はっきり言えることは、もし彼が一奉仕者となっていたら、ノーベル平和賞を受けることはなかっただろうということ。


碧岡烏兎