リビングストンの探検(IL VIAGGIO DI LIVINGSTONE、1978)、Gian Paolo Ceserani文、Piero Ventra絵、吉田悟郎訳、評論社、1980


山登りもしないのに、探検の本を好んで読む。リビングストンは、ビクトリア瀑布を「発見」した、スタンレーと「遭遇」したという受験知識しかなかった。貧しい家庭に生まれ、中国へ行きたい一心で宣教師に応募、アヘン戦争で中国を断念してアフリカへ。初めての探検で英雄になり、二度目の探検では現地でも、そして帰国後も、心身ともに地獄をみた。そして最後の探検。リビングストンは、アフリカに行ったのではなく、アフリカに生きたと言っていいのではないか。

リビングストンは、アフリカにはアフリカの文化がある、それはヨーロッパの文化とは異なるが優劣きめられるものではないと当初は考えていた。ところが、アフリカに住む人々自身が奴隷貿易に関わっている事態をみて、西洋流の文化を導入しなければアフリカは自滅すると考えるようになった。この点を訳者は疑問として最後に残している。

この問題は難しい。アフリカにはアフリカの文化がある。こういう物言いは多文化時代にはふさわしい言い方に聞こえる。構造という概念をもちだすときには、気をつけなければならないことが二つある。一つは、自己完結した構造などないということ。構造はつねに他の構造と関係をもっている。二つは、完全な構造はないということ。改善の余地はいくらでも見つかるに違いない。

確かに文化は、ある構造をもっていて、一見よそからは非合理に見えても内部では意味があることもある。とはいえ、文化は、とりわけ多文化時代にあっては、孤立して存在することはない。未開と思われていた十九世紀のアフリカでさえ、奴隷貿易という形ですでに西洋文明と関わりをもっている。

その関係は巨視的には明らかに不均衡で、微視的には片棒をかついで儲けたり自己保身を図ったりする人を弱者の側に生み出す。そういう状態にあるときに、アフリカにはアフリカの文化があるという言葉は、異常な状態を隠蔽し、さらにいびつな関係を強化する装置になりかねない。

それに、完璧な人間がいないように完璧な文化というものもない。意味があるようにみえても、ある人々を虐げていたり、衛生上よくないことはやめたほうがいいに決まっている。

訳者が指摘するように、リビングストンの考え方は少し楽観的だったかもしれない。奴隷貿易が廃止され、つまり西洋流の物品の貿易がはじまったときには、結局のところ、強者の方法で土地も資源も製品も掠奪されているのだから。

それでも、アフリカにはアフリカの文化があるという標語が陥る問題点は強調しておきたい。多文化というと、日本文化、アメリカ文化という風にそれぞれを実体化させた上で並列させる多文化主義になっていることが少なくないから。

個々の政策には、専門家の知識も必要になるし、関係者の思惑や言い分もそれぞれ聞く必要がある。それを議論し、集約し、調整した上で決定することがデモクラシーというものではないか。

ところで、アフリカやアメリカを西洋人が「発見」したことを、現地の人々に対する蔑視とみる見方がある。発見される前から人々は、そこにいたのだから。本書でも前半にそのような観点から書かれた一文がある。

ところが後半には、少し違った見方も書かれている。リビングストンは、ビクトリア湖があることを報告しただけではない。科学的な情報を多くの人がわかるように表現し、伝えた。発見とは、「明確な知識」を世界に知らせること。

とすれば、やはりアフリカに住んでいた人はビクトリア湖を発見していたとは言い難いのではないか。西洋が世界を侵略したというのはたやすい。だが歴史と思想はそんなお題目ではすまされない深さと複雑さをもっている。

その「発見」によって、私たち自身が「発見」されたことだってあるかもしれない。