第23話 太陽塔


前回書いたことの続き。地下にかくれ、レプカの圧政に耐えていた人たちは、自分の命を差し出したラナと最後のチャンスに賭けるコナンに心を動かされた。そして奮い立った彼らのなかには、銃口の前にまっさきに駆け込む者までいた。

たいせつなことは、最後に戦うことでもないし、最後まで戦うことでもない。最初に戦うこと

ちょうど書評を書き終えた吉田満も「最初に戦うこと」を説いている。戦争がはじまり徴兵が敷かれ、特攻が命令となってから反対していたのでは遅すぎる。実際、そうなってからは、ほとんど反対はできない。

静かに緊張した、謙虚に充実した日常生活」のなかで、悲壮な抵抗や無謀な反抗にいたる前に、戦わなければならない。いや、戦いは、その日常に、すでにはじまっている。抵抗も反抗もできず、散華することもできなかった戦中派は、そう訴えている。


インダストリアの委員会の人々は、最後まで耐えよう、最後には戦おう、そう思っていたのではないか。でも、彼らは、最後まで戦うことはなかった。最後がいつなのか、わからなかったからだろう。

もう少し異変が続いたら改革をしよう、もう少しレプカが横暴になったら彼を止めよう、そう思っているうちに、大変動は近づき、レプカは独裁を始めた。

今、と思ったときが最後のとき。天災に備えるのも、何かに戦いを挑むのも、他人に笑われるようなときにはじめなければ。


ところで、今回、超磁力兵器によって人類が絶滅の危機に直面したという毎回冒頭で繰り返される時代背景が、ラオ博士の台詞で説明される。

これを聞いていて、70年代らしいな、という気がした。

人類滅亡、世界の終わり、パニック。こうした概念は、核戦争の危機が間近にあった70年代特有のものに感じられる。『猿の惑星』もそうだった。テレビでは『猿の軍団』と『日本沈没』が続いて放映されていたように記憶する。『ポセイドン・アドベンチャー』や『タワーリング・インフェルノ』なども同じ路線。『なぞの転校生』や『未来からの挑戦』など、70年代に放映されていたNHK少年ドラマシリーズにも、「世界の終わり」の雰囲気があふれている。もう一つ、『太陽を盗んだ男』も。

1980年の発表ではあるけれど、『復活の日』も加えておく。

音楽では、ビリー・ジョエル“Miami 2017 (Seen the Lights Go out on Broadway)(1976)”をあげておきたい。

集団的な危機感、すべてが終わるかもしれないという切迫感。そういう感覚は今はない。『コナン』の時代、2007年は近づいているけれども、現代の危機感は少し違う。テロリストによる局地的な、だが徹底的な破壊活動。地震や津波も、原因は違うけれど、同じように被害はある地域に限定されるかわりに、その地域では壊滅的になる。ストーカーや通り魔、理由のない殺人は、もっと限定的に、それでいて致命的な被害をもたらす。

環境破壊は、70年代の公害問題を発端にしているけれど、受け止め方は違う。かつては、公害といえば、それこそ、ある地域に限定された、しかし緊急の問題だった。

今、環境問題といえば、突然に被害が広がるようなものではなく、緩やかで、その反面、全人類がいずれ直面する問題と受け止められている。だから、危機がいつの間にか、核兵器の管理のように、国際条約の、すなわち政治の問題にすりかわっている。


こういう違いを感じさせるのは、それぞれの時代の報道の違いだろうか。70年代にも陰惨な殺人事件はあった。そして現代でも、ボタン一つで人類全てが消滅する可能性は消えていない。けれど「宗教対立の時代」といわれると、何となくボタン一つの戦争ではなくて、人々がひとりひとりいがみあっている様子を思い浮かべてしまう。

70年代には、まだ小学生だった当時の私は意識することもなかったけれども、「イデオロギー」という言葉がまだ幅を利かせていた。宮崎駿の回想によれば、原作ではそのイデオロギーが色濃く影を落としていたらしい。それを作品が予見していた年が近づいても色褪せない作品に仕上げたのは、脚本・演出までもこなした宮崎の力量と言って間違いないだろう。


いったい、いつが最後なのか、いつが今なのか。客観的につかむのは難しい。客観的な報道といったところで、報道というものじたいも時代を映す鏡であるとすれば、時代の危機では、報道を通じて客観的に知ることはできないのではないだろうか

自分の危機が時代の危機。そう思うことは、独善だろうか。『コナン』をみるかぎり、コナンにしてもラナにしても、目に見えない「世界」や、名も知らない「人類」を救おうとしているのではない。自分の暮らす「この世界」をなんとかしようとして、自分の大切な人を守ろうとしているにすぎない。

モンスリーの場合、「世界を救ってやる」という態度を捨てたときに、自分が抱えていながら、気づかないでいた危機に気づき、新しい戦いがはじまった。

ラオ博士でさえ、人類を救おうともインダストリアを救おうとも言ってない。「私は、自分のまいた種を刈り取ろうとしているだけだ」。そう言っている。

社会がどんなによくなったところで、そこに人間がいなければ、それはすでに社会とはいえない。ずっと昔に、そう書いたことがある。


いま思えば、この文では、まだ足りない。私という人間がいなければ、どんな社会も社会とはいえない。

私がいなければ、この世界に意味はない!

ラナが、レプカの脅迫に身じろぎしなかったのは、この確信があったからではないか。唯我論政治思想のあいだに交差する一点があるとすれば、この確信にあるのではないか。

私はこの確信を独善的とは思わない。レプカのように「世界」を自分の意志でどうにかできると思うほうが、よほど独善的に思える。


さくいん:70年代『太陽を盗んだ男』ビリー・ジョエル