第10話 ラオ博士、第11話 脱出


ラスベガスサンノゼに2週間張していたので、2回分、見られなかった。帰宅してからまとめて見る。

前回の感想で書いたように、アニメについて書こうとすると絵より言葉、声や音楽について書いてしまう傾向が、私にはある。とくに宮崎駿作品では、そう。これは宮崎作品の真骨頂である活劇部分に感心していないからではなく、むしろそれは彼の作品を見るにあたって当然のものとして受け止めているからかもしれない。


ところで、第10話は声をめぐり面白い展開になっている。ラオ博士はインダストリアを脱出したときに顔に大怪我を負ったことになっている。それが、けがの功名で変装に役立った。それでは彼の声は変わっていただろうか。

ラナは、心に響く声に気づいていたけれど、目の前でパッチが話す声には何も感じなかったのか。あまりの変貌ぶりに、まさか同一人物と思えなかったのか。あるいは、逃亡の疲れと緊張感から判断力が鈍っていたのかもしれない。

ラナは危険が迫るほど内面の感覚が研ぎ澄まされる傾向があるようにみえる。コナンの場合、状況が危機的なほど、周辺の細かな様子に気を配るようになる。何が武器になるか、どこに抜け道があるか、たえず気をつけている。

そのコナンが、ひとつ気づいていないことがある。それは、ラオ博士の声は、おじいの声と同じであること。声優は、山内雅人。


同じ声優が一つの作品で二役やることはめずらしくない。ダイスを演じる永井一郎は、『宇宙戦艦ヤマト』では、徳川機関長と佐渡医師の二役をしていた

一人二役にどんな意味があるのか。いい人が見つからなかったという制作側の都合だけだろうか。そうとしても、違う声色で演じるとはいえ、同じ声質を起用するということは、二つの役に何か共通するものがあるからだろう。ラオ博士とおじいに共通するのは、言うまでもなくラナとコナンの心の支えであること。


他の宮崎作品でも、一人二役がある。『魔女の宅急便』の主人公キキと画家のウルスラ。キキは修行中の魔法使い。ウルスラは、森で気ままに暮らしている絵描き。演じているのは高山みなみ。私のなかでは、忍玉乱太郎と名探偵コナン

キキは自信をなくしたときに、ウルスラに出会い慰められ、励まされる。ウルスラは、キキのひたむきさに感化され、あたためていた作品を仕上げる。

二人はお互いの中に自分にないものを見つけたようでいて、実は、自分が見ていなかった自分自身を見出したのかもしれない。なぜなら、声色はちがっても、二人は同じ声をもつ同じ人物なのだから。

『魔女の宅急便』との共通点をもう一つ。コナンは、これからどうするべきか考えるとき、黙々と銛を削る。旅立ちの前夜、コナンは小さな火をともして銛を研いだ。ふと、目の前の椅子に、おじいがいつものように座り、いつものように書きものをしているような気がした。

キキは魔法使いの大事な道具、空飛ぶほうきを壊してしまい、仕方なく自分で作りはじめる。ひとり木を削りながら、彼女は故郷を思っていたに違いない。


第10話と第11話の二回では、テリットと役名も与えられてないサルベージ船の乗組員が重要な役回りを演じる。テリットは、どうしようもない小市民。信念は何もなく上役に媚を売ることしか考えていない。かといってその策略もたいしたものでなく、かえって点数を引かれる始末。

子どものときには、テリットの意地悪が長く執拗に感じた。大人になってから見ると、すこし違って見える。自分のなかにある卑小さに気づきはじめたからと言えるだろうか。

彼の名前は最後にもう一度登場する。そのとき、なぜかいつもシェンキェビチ『クオ・ヴァディス』に登場する詐欺師キロンのことを思い出す。

サルベージ船の労働者は、「パッチさんが誰だってオレたちの親方には変わらない」「お助けください」とまで言い、従おうとするが、ラオはコナン、ラナとともに密かに小船で脱出する。

彼らはその後、どうなったか。回数を重ねるたびに、名前のない端役の行末も考えるようになった。

もっとも、ラオは彼らを見捨てたわけではない。浮遊するサルベージ船では、地震や津波があっても安全とラオは知っていた。彼らも最後に再び登場する。