第17話 戦闘、第18話 ガンボート |
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この二話は急展開。ハイハーバーへ帰還してから、島の中だけのエピソードで停滞していた物語がモンスリーがガンボートに乗って登場することで一気に動き出す。 手製爆弾一つで大きな船が沈没してしまうというアイデアは、宮崎駿が幼い頃見た手塚治虫の作品から借用している。『出発点』の中のインタビューで話している。 宮崎の手塚への対抗心は激しい。アニメ産業を日本で興した功績は認めても、ビジネスモデルとして当初から破綻していたのは、手塚が普及を優先させ採算を度外視していたからとあちこちで批判している。 確かに、宮崎駿はアニメ映画のビジネスモデルを再構築した。人が集まり金が儲かる劇場作品を彼は生み出している。もちろん成功の理由は企画、制作というビジネスの面だけではない。彼の創り出した作品そのものに魅力があったから。 「戦闘」「ガンボート」の二話には宮崎アニメの魅力が凝縮されている。実写ではありえない動き、冷静に考えればあまりに現実離れした設定、ちょっとしたロマンス、そして息をもつかせぬ急展開。同じ時期に制作された『ルパン三世 カリオストロの城』に似た場面も多い。 活劇こそ、宮崎作品の真骨頂。まさしく。 宮崎駿の作品には、さまざまなメッセージ、少し気取って言えば思想がある。今まではそちらが宮崎作品の本質であり、活劇はスパイスのようなものと思っていた。実は、こちらが肉であちらが香料ではないか。 しばらく彼の作品を見なおしたり、『未来少年コナン』を第一回から、感想を書き残しながら見ていて、そんなふうに思いはじめている。 彼の作品にみられるメッセージや思想性は、どれも断片的で、一貫性に欠けている。少し意地の悪い言い方をすると場当たり的に教訓めいたことを埋め込んでいるように思われることもある。断片的だから全体性に欠けているのではない。 思想は、多くの作品のあちこちに散っていても、星座のようにつながっていることもある。例えば手塚治虫の作品の場合は、さまざまな作品に、読み比べれば矛盾しているようにみえるほど彼の思想の断片が散在してる。にもかかわらず、その矛盾さえも包み込んだ、一貫していて全体的な思想性を私は感じる。 これは、宮崎作品の欠点ではない。これまで、私自身を含めて多くの人が宮崎作品にアニメ映画以上の何かを求め探してきた。求めすぎたともいえるかもしれない。確かに映画作品の多くは娯楽以上の何かを秘めているけれども、そちらに気をとられすぎても映画を楽しむということからは離れていくだろう。 あくまでも娯楽作品として見ること、そのうえであちこちに埋め込まれたメッセージを作品全体のなかでなく個別の問題として、言葉をかえれば自分の日常に持ち込んで考えなおすこと。一言でいえば、宮崎駿を優れたアニメーターとしてだけみること。 アニメーターという顔の他、宮崎には子ども向けの作家という顔もある。学生時代は児童文学のサークルに所属し、現在でも子ども向けの作品を作りたい、と彼は繰り返し述べている。この点は見る側、ひょっとすると本人も見過ごしがちかもしれない。 大人向けの主題や意味づけに気をとられていると、単純な主題をかえってこねまわすようなことになりかねない。絵本という芸術は、作品の表面で深い議論はしないけれども、絵と文字を読み込んでいくと深いメッセージを見いだすことができる。しかもそうしたメッセージはたいてい、簡潔な表現によってなされる。 『コナン』の面白さは、主題が単純で、表現も簡潔なところにある。そうして見る者を、とりわけ子どもの目を、たちどころに引き込んでいくところにある。それでいて主題が明快だから、大人の目にも考える種がたくさん埋まっている。 その種は大人になって見返すときのおまけのようなもの。おまけを先に開けるのは、むしろ子どものすることではないか。 手塚治虫の作品とそこに込められた思想には、表とともに裏がある。宮崎駿の児童向け作品には裏がない。裏がないからこそ、子どもは物語を楽しみ、物語の読み取り方を学ぶ。物語の読み方を知っている大人は、表だけの物語からも裏を読み取ることができる。ただし、その裏は読み手が読み込んでいるものであり、書き手の世界ではない。 大人は、裏表を描いた作品から、描かれた裏と表を読み取ることができるし、描かれていない裏と、裏の裏にある表も読み取ることができる。 |