KINOKUNIYA TIMES-2002読書週間号-紀伊国屋書店創業75年記念「私の人生に最も影響を与えた1冊」、紀伊国屋書店、2002


この手の特集はつい手にとってしまう。読むほうは、著名な人の本棚を覗く、一種ののぞき趣味的な興味から楽しむけど、書くほうにはなかなか苦労のかかる仕事のようだ。まず、今書いたように、愛読書は何か、ましてや今回のように「人生に影響を与えた一冊」などという問いかけは、自分の心の奥底を開陳するようなもので、取り上げた書物を通じて色眼鏡で見られる可能性がある。

読むほうはたった一冊あげられた本から、書き手の子ども時代の様子から青春時代の過ごし方、信条までを覗いたような気に勝手になる。書く方からすれば、ただでさえ本棚を見せることは、それだけで趣味だけでなく、信条までを明かすことに近いものなのに、それを一冊によって判断されるようでは、二重に気味が悪いだろう。また、こういう特集は一度に多くの人が執筆するから、自然と短い随筆の競作となる。それも書き手にはがゆさを感じさせている一因のようだ。

そこで書くほうも、一種の自衛手段として、読者の期待に対して少しはずれた回答をしたり、裏技的な回答でほかの執筆者と同列に並ばないように工夫をしている。質問を肩透かしに流し、マンガや自著をあげてみたり、容易に見透かされないようにか、絶版の書物をあげている人もいる。


「人生に影響を与えた一冊」とはかなり思い切った設問。読み進んでいくと、「人生」は「職業、社会的立場」という意味に限定されているのがわかる。編集側で質問に注釈があったのか、回答者の側でそうした読み替えをしたのかはわからない。ともかくこの限定によって、信条告白は避けられている。もし設問が「あなたの内面・人格形成にとってもっとも影響のあった本」だったら、いくら物書きを生業とする人でも、回答を拒否した人が続出したのではないだろうか。ほんとうに心を奪われた本は、そう簡単に人には教えられない。大事な人にこっそり教えるもの。

そう、いま書いたとおり、回答している人はすべて、何らかの形で文章を書く職業で、一部俳優も含まれているが、広い意味で表現者ばかり。つまり、人生に影響を与えた一冊とは、実は表現を職業とする人がそうした職業につくきっかけとなった一冊なのだと気づく。

意地の悪い言い方をすると、一種の成功譚ばかりといえる。あるいは、物書きたちの「楽屋オチ」にすぎない。誠実な執筆者ほど、その雰囲気を取り除こうと腐心しているのもうかがえるのだが、どう書いても、この手の特集にはそうした嫌味な雰囲気が残る。

これは物書きでない人の僻みかもしれない。でも、そうとばかりも言えない。問題は、編集、出版する側がこうした特集で新たな読者層を開拓できると思っているところにある。

あくまで物書きを生業とする人たちにとっての「人生を決めた一冊」と思い、差し引きしながら読むと、覗き趣味はあまり満たされないものの、執筆者をそれぞれが選んだ一冊だけの色眼鏡で見ることもなくなる。無料の広告冊子の特集に信条まで読み込むこともないだろう。文筆業とも無縁で、経営者でも政治家でもない人々の「人生の一冊」を集めたものがあったら読んでみたい。


閑話休題。

荒川洋治がラジオコラムで面白い指摘をしていた。手短に書くと、深刻な活字離れの原因をゲームやテレビなど、青少年の生活習慣のせいばかりにしないで、これまでの大人の読書に問題があったのではと反省すべき、と。荒川によれば、今、世の中は荒んでいる。子どもにしてみれば、「本を読め読めと言ったって、あんなに本を読んでもあんな大人にしかなれないのか、こんな世の中しかつくれなかったじゃないか」と反発するのは当然のこと。

荒川が言うには、大人は読書をすすめるというよりも、しばしばいかに自分が読書したのかを自慢げに語り、説教する。同じ何度も本を読んだと豪語する人がいるけれど、その半分は嘘。二度目以降は感動を追体験するため「薄目をあけて読んでいる」から

さらに荒川は、このままでは読書はやがて一部の人だけがもつ特殊技能になると述べてから、「ただ、こういう状況では少し読んだだけである分野の専門家になれるというメリットもあります」と締めくくった。

この結語には、さすがにいつもは荒川に対してはツッコミ役の森本毅郎も、「強烈なブラックユーモアですね」と苦笑するしかなかった。

「楽屋オチ」とお説教。これでは活字離れに歯止めはかけられまい。


碧岡烏兎