最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

公園の湧水

9/19/2015/SAT

戦後世代の戦争責任——『敗戦後論』をめぐって——、李順愛、岩波ブックレット、1998


8月14日に発表された、内閣総理大臣談話、いわゆる「戦後70年の政府談話」。読み返してみると、次の部分がやはり気になる。

日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

上の文章からは、繰り返される旧植民地からの「謝罪要求」に応じることはもうやめたい、という本音がみえる。

戦後生まれの日本人に、戦争責任はないのだろうか。


確かに、日中戦争や太平洋戦争を起こしたのは、戦後、日本に生まれた人ではない。しかし、侵略の責任を明確にしてこなかった政府を支持してきたのは、戦後に生まれ、戦後に生きてきた人たちではないか。私も、そのなかの一人。

歴史は検証されなければならない。生き証人がいなくなったからといって時効になるものではない。

検証の結果は、必ずしも「謝罪」ではないかもしれない。とはいえ、大日本帝國が誰に対して、何をして、戦後の日本の政府と国民は何を見逃してきたのか、それらを明確にして、きちんとした態度表明をする必要があると思う。

それは、過去についての「和解」と、将来に向けての「相互理解」のため。


今回、政府が強行した憲法解釈の転換と安保法案の成立の背景には、なお米国の安全保障政策の影響が見え隠れする。日本は、未だに独立国家ではない、米国の属国と言う人がいる。そういう人の多くは、憲法改正や自主憲法の制定、国軍の整備などを訴えている。

前回の安部政権では、憲法改正に正面から挑戦し、国民の理解を得られなかった。今回は、さまざまな工作をして、安保法案を成立させた。これをもって、自主独立への一歩と見る人もいれば、米国との「同盟関係」が強化されたと喜ぶ人もいる。私には、米国の戦略に振り回される可能性が高まっただけのように思われる。

今回のように安全保障政策を中途半端にすると、政権の裁量が大きくなる。それだけ米国の指示に服従せざるを得ない場面が、むしろ増えることが懸念される。憲法を改正して、日米安保条約を根本から見直す外交交渉をしなければ、自主独立したことにはならない。


自主独立する、ということは、米国の政治的・軍事的な影響下から脱するということとともに、東アジア諸国と“自律的に”「和解」と「相互理解」を深めることを意味する。米国が日本に求めたような片務的な「連携」を東アジア諸国に求めるのでは「相互理解」にはならない。

在日韓国人二世の李は、自主独立を唱える人たちの矛盾を突く。

   敗戦後、日本の知識人たちが、GHQという「自分たちを制服している存在の「力」に反発を覚えた気概がほんものであったならば、それが思想の名にあたいするほどの内実を湛えたものであったならば、まさに彼らこそが、四〇年ちかくも国を奪われていた朝鮮民族の思いがどのようなものであったかについてただちに気付かなければならなかったはずである。

憲法を強引に歪曲させた今回の安保法案の成立によって、日本国の真の独立は遠のいた。アジア諸国との「和解」と「相互理解」は、一歩も二歩も後退した。

これからの戦いは、「静かに緊張した、謙虚に充実した日常生活」(吉田満)のなかで継続しなければならない。そして、戦いの目的は、「抵抗」ではなく、「理解」でなければならない