土を掘る 烏兎の庭 第三部
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6.30.06

日米交換船、鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創、新潮社、2006


鶴見俊輔の自叙伝には、『戦争が遺したもの——鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二、新曜社、2004)がある。本書は、鶴見の人生の分岐点になった交換船に焦点をあてた鼎談。ほかに、そもそも交換船とは何か、というところから説き起こして第二次大戦における交換船の意味を考える黒川創の文章。交換船に乗り込んだ人々の小伝、鶴見の同窓会的な聞き書きなど、内容は盛りだくさん。

盛りだくさんのなかで、気になったことだけをいくつか書き残しておく。

鼎談を読んでいると、鶴見俊輔という人にどうしても馴染めない感じがする。『戦争が遺したもの』以上に違和感が残り、ときに彼の発言にイライラしてしまう。

鶴見には偽悪的な発言が多い。そして、そうした一見、自分を貶める発言は、巧みに自分を他とは違う、一段上の存在に見せかける仕掛けになっている。自分の発言にそういう効果があることを、鶴見自身はどれくらい自覚しているのだろうか。

小学校落第とか、元不良少年とか、語られる逸話は毎回同じ。それはすでに物語化、口悪く言えばお決まりのネタになっている。ほんとうの劣等感はそう簡単に言葉にできるものではないのではないか。言葉にしているものは、むしろ作られた劣等感ではないか。

あるいは、思い出したくないような出来事を、齢を重ね、語りを重ねて、笑い飛ばせる逸話の一つにしてきたのかもしれない。そうとすれば、その言葉はまず彼自身の体験のなかで意味がとらえられるべきだろう。外向きの意味は、文脈が異なってくる。

いずれにしろ鶴見の発言は偽悪的で、本心とはいつも少しずれているように感じる。『戦争が遺したもの』の帯には、「いまこそ話そう」とあったけれども、鶴見には言葉ではまだ語っていないことがたくさんあるような気がしてならない。


「日本は必ず負ける。負けるときは負ける側にいたかった」

鼎談のなかでも印象に残る言葉。この言葉は嘘だと思う。少なくとも、帰国を決心したときの気持ちではないことは彼も認めている。これはあとから帰国した事実を振りかえり考えた言葉。自分がそのとき無意識にしたことをあとから自分で納得するための言葉。そういう言葉は確かにある。

鶴見は、徹底した唯名論者。彼の言葉は彼が名前と顔を知る人、誰よりも名前と顔をよく知る自分自身に向けられている

徹底して自分と、目の前にいる人に向けられた言葉が、名前も顔も、鶴見の置かれた状況も知らない人に届く。そこに彼の言葉の魅力があるのかもしれないけれど、私にはそこにある種のトリックもあるようにも思える。


ハーヴァード大学の優等生になった不良少年は、合衆国で活路を見出した。この点、外国で挫折して帰国し、日本主義者になった人とはきわめて対照的。戦争がなかったらそのまま向うで成功して、「日本を飛び出せ」と遠くから檄を飛ばしていたかもしれない。

鶴見にとって、日本、とくに東京は、むしろ帰りたくない場所だった。にもかかわらず、帰ったのは、自分の存在を否定する場所にあえて戻り、そこで自分を否定するすべてを見届けて、それでも否定されない何かを自分のなかに見つけ出そうとしたからではないだろうか。

鶴見には、このような勇ましい言葉では表わせない、違う理由があったように私には思われる。そういう自分を、この言葉で激励し鼓舞した、あるいは奮い立った自分をあとからこの言葉で振り返った、そんな風に感じる。

苦い記憶が残る日本を後にして、米国では成功した。でも、このままではいられない。苦い記憶と体験の根を断ち切っておきたい。そんな気持ちはなかったか。そうとすれば、帰国は自分の原体験への旅だったかもしれない。

そこに祖国の無謀な戦争と敗戦を重ねてみると、帰国の心理は、負けるという失望感より、「堕ちるなら堕ちるところまで堕ちてみよう」という悲壮な決意だったように思える。そして、どん底で鶴見が見出したもの、それが「オレは人を殺した、人殺しはよくない」という言葉だったのではないか。彼の戦後は、この命題の実践だった。

ところが、この言葉には、そういう彼ひとりにとっての意味合いとは離れて、鶴見には敗戦までを見通す先見性があった、負けて悲惨な庶民の側に立った、そんな意味合いで受け止められる仕掛けがある。


日本に戻ることが負ける側に行くことと決まっていたわけではない。合衆国に残った日系人や日本人は、戦後になっても勝った側で負ける、という、ある意味ではより悲惨な立場に置かれた。この発言は、彼らの側につくことを鶴見がまったく想定していなかったこと、勝ち負けを戦の勝敗で考えていたことを明らかにする。

また日米開戦前夜、日本を飛び出し合衆国に渡った絵本作家、八島太郎は、祖国をより早く負けさせる仕事に携わり、勝った側として負けた同胞に会うという厳しい立場を全うした。

鶴見の発言は、そういう別の角度や、別の可能性をもたない。彼の言葉は、事後的に自分を納得させ、激励する言葉だからだろう。他人や未来に宛てた言葉でないとすれば批判は当たらない。


鶴見にはこういう仕組みの発言が少なくない。すこし前にも、日経夕刊に老いを迎えた著名人に話を聞く欄で、大学という場所はだめだ、だから辞めた、というような話を彼はしていた。

ダメとわかっていたなら、なぜある時間、そこにいたのか、ダメな場所にいる間にした仕事や関わった人たちは何だったのか、いまもそこにいる人たちはどうなのか、そういう視点はない。はたから見ると、自分は何でも見通していて、自分には何の非もないような言い方にも感じられる。でも、彼にとっては、こう言うしかない気持ちなのだろう。

鶴見の徹底した唯名主義は、いったいどこに源があるのだろう。論理哲学だろうか、プラグマティズムや、思春期を過ごしたアメリカの風土の影響か。それとも、それ以前に養われていたものだろうか。

この欄では、串田孫一も亡くなる直前に出ていた。ワープロでは推敲の履歴がわからなくなるから手書きにこだわるという話。いつどこを推敲したかは、手書きよりワープロ・ソフトのほうがはるかに正確に記録されることを、串田は知らなかったのだろう。それはそれで構わない。手書きが好きなら手書きを選べばいい。

手書きか機械か、それは本人次第。とはいえ、無知の結果や単なる好みかもしれない選択を、賢人の知恵のように伝えるのは、それを言った人のためにもよくない。ところがマス・メディアは、いわゆる知識人の言葉に隠された仕掛けを大げさにして見せることが多い。


「一番病」「マゾヒズト」という語も、鼎談での鶴見の発言を読み解く鍵。アメリカにいたときの鶴見は一番病だった。何に追われていたのか、何から逃げようとしていたのか、勉強だけに力を注いだという。この言葉も卑下した使い方で、彼が非難する一番病とは違う。彼は優等生であったけれど、帰国して大臣を目指そうとしていたわけではない。

にもかかわらず、神風を信じる父親の態度や、船上で戦勝気分にひたる無邪気な人々を見て、病的な一番病だった鶴見は、上昇志向の一番病を今度は病的に拒絶するようになる。つまり、鶴見は、戦争の時代を通じて一番病から反一番病へ、まさに「転向」した。軸足は動いていない。身体の向きがぐるっと回っている。何に追われているのか、何から逃げようとしているのか、熱心に追い求める姿は変わらない。

だから彼は、同じように転向した人々を執拗に追い続けたのだろうし、また、自分とはまったく違う性質をもつ、上昇も下降もない一番病で、独立独行の人々を憧れをもって探しつづけたのだろう。

鶴見を半ばあきれて「おもしろ主義」と評する人もいる(「対談 知識人について 藤田省三×岡本厚」『丸山眞男 没後10年、民主主義の〈神話〉を超えて』、河出書房新社、2006)。なるほど、彼は面白い人を追いかけた。しかも、しゃかりきになって追いかけた。そうしなければいられない内面の何かに突き動かされていた。

マゾヒストというのは、他人から見れば倒錯しているけれども、本人はそれを楽しんでいる。他人に迷惑をかけず、自分を押しつぶさないでいられるならば、せいぜい変わった嗜好にすぎない。ただ、彼の発言は鵜呑みにできないから、実際には下降する苦しみもあったに違いない。そういうことをおくびにも出さないところに彼の話術の魅力があるし、彼の矜持がある。

鶴見が日本に帰ったほんとうの理由はわからない。それは、彼を一番病に駆り立てたものだろうし、またそれは、反一番病に染まっても消えるものではなかっただろう。それを語ることはもうないかもしれないし、いまでも言葉にはなっていないかもしれない。マゾヒストだから虐待をした母親のそばにいたかったというのも、案外、冗談ではないかもしれない。

それもそれで構わない。何でも語ればいいというものではないし、触れたくないことをかきむしる必要もない。彼自身、「あいまいなものが人をつくる」と言っている。これもまた誰よりも彼自身に向けられた言葉だろう。まず行動、その自分にとっての意味を言葉にして話す。これが鶴見の流儀。そういう生き方もある。そういう思想もあるだろう。

語りきれないことを表現しようとをどこまでも求めてやまない、そういう思想もある、きっと。

人生で必要なことは、他人に迷惑をかけずに、それでいて自分も楽しく、できれば他の人のためになること。そして、鶴見は十分にそれを果たしてきた。語られない事実より、語ってきたことのなかにすでに彼の真実はある。



uto_midoriXyahoo.co.jp