キャラとスタイル――あるいはコンテンツと作品


「キャラとスタイル」という題名で文章を書こうと以前からしているのだけれども、なかなか書き出せないでいる。いっそのこと、思いついたことを断章のまま書き出してみる。あとで文章にまとめることができるかもしれない。


キャラという言葉、その概念がどうしても好きになれない

キャラ=ポジション、居場所。

存在していれば、居場所は必ずある。与えられる。

スタイル=持ち場、役割。

環境に応じて、あるいは抗いながら、自分で作り出すもの。

キャラは受動的。スタイルは能動的。

キャラは静的、固定。スタイルは動的、変化。


キャラが生み出すものはコンテンツ、または記録。

生きているかぎり、コンテンツと記録はいくらでも作ることができる。

森有正は、体験だけならどんな阿呆でも肥大する、しかし経験はそうはいかない、と書いている

スタイルが生み出すものは、作品。

誰でも一編の小説を書くことができるとしばしば言われる。この言葉は間違っている。履歴書なら誰でも書けるが、小説は誰にでも書けるものではない。たとえ自分の人生を題材にしても、それを小説としてとらえることができない人には、人生は記録の累積でしかない。


スタイルは人格と言いかえることもできる。人格、個性という概念は、三木清『人生論ノート』で詳しく展開されている。


キャラも悪い面ばかりではない。作品のなかでキャラは重要。明瞭な性格付けが登場人物に与えられると作品はいきいきしはじめる。ある種の作品では、登場人物の性格を固定することで、いわば定点観測的に物語を展開する場合がある。

シリーズものやギャグマンガでは、あらかじめ設定したキャラを中心に物語がまわる。だからキャラが変化しては物語がかえって不安定になる。


しかし、人生や生活はそうした作品とは決定的に違う点がある。人はすべて死という終わりに向かっている。この点でキャラを中心にした物語とは異なる。

人間は死に向かって変化し続ける。成長し、老化し、死を迎える。しかもその時期は知らされていない。だから人生をキャラによって生き抜くことはできない。


生きていけば、いくつもの場、舞台を経験する。家庭、学校、職場、ご近所、クラブ、サークル。それぞれの場でキャラを使い分ける生き方はどうだろう。

その場合、そうした複数のキャラを使い分けている存在はいったい何なのか、ということが問題になる。複数の人格がさまざまなキャラを演じているのではなく。一つのスタイルがさまざまな役割に応じてスタイルを変奏していると考えなければならない。