韓国で生まれ、日本で育ち、現在はカナダに住む男性。こうした境遇の人はけっして少なくない。だから、こうした複合的なナショナル・アイデンティティをもつ人たちによる内部破壊的なナショナリズム論は登場すべくして登場したといえる。金は学者や作家ではない。企業の社員を長年してきた。ナショナリズムは理論や研究が先行しがちな分野。その点、本書は、複合的な境遇を生きてきた一人の体験に基づいた考察が展開されている。
体験に基づくといっても、三つの国家を渡り歩いてきて不便な事ばかりだった、だからナショナリズムは悪だ、という短絡的な体験談ではない。著者は、自分の経験をかえりみると同時に、ナショナリズムの歴史を調べて学ぶ。そこでは、思想家の名前はほとんど出てこない。自分で学んだことを、自分の経験に照らし合わせ、自分の言葉で表現しようという著者の努力が感じられる。言葉をかえれば、ナショナリズムが学問的な問題ではなく、金にとって生きるために切実な問題だからこそ、理論や思想家の言葉に頼ることはできず、自分の言葉で思索をしなければならなかったのだろう。
本書の読みどころの一つは、著者が、「神様のようなパワー」を与えられたとしたら、日本国国民と韓国国民と、それぞれの政府に、「いい加減に喧嘩はやめなさいと命令するだろう」と述べたうえで展開する、ご託宣。ここには二つの国籍と文化の裏表を経験しそれをさらに別な場所で客観的にとらえなおした著者ならではの見識がある。
神にならなくても、カナダから日本と韓国にむかって彼は訴えている。過去の国家間関係に道徳的責任をもちだしてはならない。そうすることでかえって道徳的問題が政治的問題にすりかえられるから。それより前に、何が起こったのか、なぜそうなったのか、それぞれの立場からで構わないから、誠実に研究すべきである、と金は言う。
日本国国民も韓国国民も、過去の歴史に必要以上に感情移入する必要もなければしてもいけない。政治の問題は、政治の問題として冷静に対処すべきだ、という主張は神の声ではなく、一人の思索者の声として傾聴に値する。
「原罪」という語感の強い言葉をあえて使う理由は、一人一人が意識するしないに関わらず、内在させていることを喚起するため。現代人は、みな何らかの形でナショナリズムをもっている。それを柔軟に応用する人もいれば、頑固に自分の存在すべてにあてはめ、さらには他人に押し付け、あてはまらない人を蔑む人もいる。「原罪」からは誰も逃れることができない。自在に制御することもできない。できることは、せいぜいそれを暴走させないことかもしれない。
ナショナリズムの暴走を食い止めるできるのはコモン・センスしかない、と金は言う。潔いのは、コモン・センスの内実を定義しないでいること。
結局は、いろいろとすったもんだしながら失敗を繰りかえし、そこから小さな教訓を得てコモン・センスを磨き、こまごまと日常をこなしていく。そんな結論しかだせないのは情けないが、焦ってゼッタイテキカチキジュンなんかに飛びつくよりはましだろう。(「終章 愛国者の時代」)
情けないことなどない。焦って価値基準やコモン・センスの内実まで語ってしまったり、自分だけはそれを備えていると言わんばかりに説教しはじめたりする人がいかに多いことか。
本書は、一人の人間がすったもんだしながら思索した過程であり、彼自身がコモン・センスを磨いた場所である。そのような個人的で地道な方法でしか、「ナショナリズムの克服」はできないのではないだろうか。
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