教養の歴史社会学 ドイツ市民社会と音楽、宮本直美、岩波書店、2006


図書館の新刊棚から。音楽史を軸に、ドイツ史における「教養」概念を解体し、その空虚さを暴く。

中身のない空虚なものがいつのまにか絶対的な権威を帯びて、人々の内面から拘束する過程を著者は「本質化」と呼ぶ。定義できない概念が、定義できないがために、疑いを向けたり相対化したりすることができなくなる。この論理自体は突飛なものではない。


19世紀ドイツにおいて「教養」概念を「本質化」させた要因を、宮本は三点あげて詳述する。

合唱に象徴される共同性に重点を置いた芸術活動、天才個人へのロマンチックな憧憬や、それに誘発される個人崇拝、そこから演繹される市民的徳、そして、音楽活動の習慣化、儀礼化、そして言葉による説明の蓄積による体系化。

とくに、バッハ復興の過程は、ちょうとバッハの新しい伝記絵本を読んでいたので、面白く読んだ。バッハは、没後一部の専門家を除いてほとんど忘れられていた。ところが、合唱活動の流行を背景にして、受難曲が脚光を浴びる。

そして、外国旅行さえしなかったバッハは「勤勉なドイツ市民」のイメージとともに伝説化された。それから後は「音楽の父」として、子ども向けにも伝記が書かれる、いわゆる偉人となった。最近では、本書を含めて、偶像破壊も少なくない。


研究対象は19世紀ドイツではあるけれど、日本語で生活、研究している宮本の念頭には、日本における「教養」概念や、ドイツがそうであったように「教養」と連動しながら空虚さを絶対化させてきた「日本」というナショナルな観念もあるに違いない。

空虚さが「本質化」して権威化するという大まかな図式は、日本の「教養」や「日本」という概念そのものについてもあてはまるような気がする。もちろん、細部にわたっては宮本が労をかけたような研究が必要にはなるだろう。


日本における「教養」概念については、竹内洋の研究をこれまで何冊か読んできた。竹内によれば、明治以降の「教養」は、空虚さというより「立身出世」という世俗的で実質的な目的を隠し持っていた。ただし、この世俗的な目的を隠蔽するために、「教養」は「たどり着けない」という空虚さを身にまとった。

宮本が音楽を対象にしたように、竹内が分析したのは、おもに読書。日本の「教養」は読書によって支えられた。西洋の古典は、圧倒的な権威をもつ一方、読むこと自体が目的であり、多くの本は大学時代の通過儀礼の役割を果たした。

「あの頃、あれを読んだよな」という合言葉は、「教養人」を自称する人々が他者を見下す言葉でもある。宮本がドイツの「教養」に見た共同性と同じ心理をここに見ても、そう的外れでもないだろう。

極端な言い方をすれば、宮本が十九世紀ドイツの「教養」に見た現象は、現代日本にも見られる。天才志向や個人崇拝についても、ベストセラー主義やランキング主義は、個人崇拝をさらに推し進めている。


クラシック音楽以外でも、ある芸術家について語られている言葉が、どれほどもとの作品からはかけ離れ、異なる意図や文脈に用いられているか、たとえば、ジョン・レノンについて考えてみても、十分、社会学の研究になるだろう。

音楽を楽しむためにはじまったカラオケは社交の道具となり、選曲に気配りが必要なものになっている。共同性に傾くという点は、ブログについても言える。皆が同じことをする安心感や、互いに当たり障りのないことを言及しあって充実感を確かめ合うという心理は、合唱活動の底にあったものと大差ない。

新しいものが生れたり、流行したりするたびに、それで世の中すべてが変わるかのように絶賛する人もいれば、古きよきものが消えてなくなると糾弾する人もいる。実際のところ、新しいものでも古いものでも、それに使われる人とそれを使う人が生れるにすぎない。

要は気持ちの問題と言ってしまえば、それまでになる。それを説明することが難しいし、それを日頃から身につけるのはなお難しい。


宮本自身は、「教養」とはどのようなものと考えているのだろうか。解体することを主な目的としている本書に、直接の言及はない。竹内のように「じゃまをする教養」や「対面的人格」などのような新しい提案もない。とはいえ、彼女が本書で「教養」を批判するために用いた言葉を裏返すと、その輪郭はおぼろげに見えてくる。

共同性に傾くのではなく、個人の実践を重んじる。もしくは、個人的な実践を基盤にした共同性。彼女が「教養」や芸術は個人性に基づくべきだと考えていることは間違いない。

ある仕事を個人の才能に還元してしまったり、そこから今度は天才のすべてを礼賛することを避ける。天才と呼ばれた人のなかに凡庸さを見逃さない。一見、凡庸に見える人間のなかに天才的な仕事や活動を見出す。それをあくまで仕事や活動の単位で評価する。


こうして書いてみると、共感できる部分は少なくない。共感したいけれども、疑問も残るのは、最後の項目。習慣化、儀礼化を予防し、言葉による説明を拒絶する。つねに新鮮な気持ちで芸術に接するということは、実践は難しいとしても、わかる。では、言葉による説明や過度の体系化は、防げるものだろうか。

本書は、言葉では説明しきれない音楽を対象にした言葉を充溢させることで、音楽を「本質化」させてきた音楽学に対して、いわばイデオロギー暴露を行っている。同じようなことは文学研究や思想史研究についても言えるだろうし、実際、言われ続けている。

それでも、音楽について語ることを人はやめないし、本について書いた文章もなくならない。人文科学は、永遠に屋上屋を重ねる宿命にあるのかもしれない。「教養」の空しさを徹底的に暴きながらも、その繰り返しを空しいとは思わない。著者の考える教養の一端は、きっとここにある。


宮本は、19世紀ドイツの「教養」が空虚であったことから議論をはじめて、それを論証することで論文を締めくくっている。こうして全体を読み終えると、一つ根本的な疑問が残る。そもそも、空虚であることは問題だろうか。

もし「教養」の内実が、可視的で測定可能なものであったなら、すべての人はそれに見合うかどうかで区別されてしまう。「教養」の理念は、ドイツでも日本でも、おそらくそうした事態や志向に反するものとして生き残ってきた。

問題は空虚さそれ自体にあるのではない。空虚さに飽いて、目に見えるものを手に入れて悦に入ったり、順番だけを競ったり、そうでなければ空虚さに疲れて、目標もなく繰り返すことに安住したり。つまり、問題は、空虚さの受け止め方にある。空虚さそのものを問題にすると、今度は空虚ではない「教養」に戻りかねない。

屋上屋を厭わず、膨大な資料から、ほんの一つの概念を抽出する。人文科学は、地道で地味な世界。でも、熱い専門書という本も、確かにある。そういう本は、昔ながらのやり方で、個人的な情熱と平凡に見える作業に支えられている。

習慣、儀礼、形式、惰性、空虚なものを支える見えない柱を崩すものは、結局、それしかない。