森先生との出会い、時の果実、辻邦生、朝日新聞社、1984

森有正全集 補巻、森有正、筑摩書房、1982

経験・個人・社会ー木下順二・丸山眞男・森有正、丸山眞男座談7 1966 - 1976、岩波書店、1998


『森有正エッセー集成1』(ちくま学芸文庫、1999)について書くのは、しばらく先になりそう。森にとってイタリアやギリシアがそうだったように、感動を自らの言葉で表現するためには、感覚が発酵するのを待たなければならない。

その発酵を促すためにさらにバッハを聴いたり、森に関連する著作を読んだりするのは悪いことではないに違いない。全集を補巻から読み始めたのは、年譜などの資料があるものと期待したため。期待に反して未刊行の文章が収録されているのだが、どれも興味深い内容。


森有正という思想家がとにかく生真面目な人だったことは、辻邦生の述懐だけでなく、全集補巻に収められた「自覚ということ」「勉強について」など学生向けて書かれた文章からも伺われる。また思索家である森が、語学習得や単身生活の方法においてはきわめて合理的な実践家であったことも、「留学と会話」で詳述される勉強法や、辻や井上究一郎が全集付録で書き留めているように、パリへ来た若者へ生活についておせっかいといえるほど細かい助言をしていることからもじんわりと伝わってくる。

木下順二と丸山眞男との鼎談では、ヨーロッパ文明というものについて、政治学者で非キリスト者である丸山との対話を通じて、思想家でキリスト者である森の立場が明確に提示されている。社会科学の視点から客観的にヨーロッパ文明をみると、キリスト教だけが精神的な主柱となっていると思い込みがち。この思い込みは二つの点で間違っていると森は指摘する。もっとも森の発言は丸山へ質問する形となっていて、内容の批判性に比べて表現は控えめ。


森によれば、ヨーロッパ文明の中でキリスト教だけを重視することは、キリスト教以前のギリシア、ヘレニズム、ローマ、あるいは対抗勢力であったイスラムから受けた影響を見逃すことになる。キリスト教だけがヨーロッパを生み出したのではない証明として、キリスト教が伝播したエチオピア、インド、中国ではヨーロッパのような個人主義や近代文明が生まれなかったことを、森は指摘する。

丸山はこの指摘を受けて、ヨーロッパ精神史における重要性を依然としてキリスト教に強く見出しながらも、地理的な条件なども加味して、キリスト教という一宗教だけがヨーロッパを生み出したのではないと認める。

私個人は、中世から近代を通じてヨーロッパ文化の機軸をなしてきたのは、やはりキリスト教だと思いますけれども、ヨーロッパという単一な文化圏が昔からあったように見えるのは後から見た考えで、歴史的には異質的なカルチュアが猛烈にぶつかり合って渦巻を起こしている。そのなかから、共通のヨーロッパ意識が徐々に生まれてくる。そういう条件のなかで、森さんのいう社会や、あるいは個の考え方も根づいてきたと思うのです。

ヨーロッパ文明の根源に多様性を見出すとしても、その中心はやはりキリスト教であるという考えに対して、森の立場からは、キリスト教の世俗的な部分だけを見ることになるという批判がなされる。世俗的な道徳は、信仰としてキリスト教を受けとめる者にとっては、キリスト教の主要な部分ではないから。むしろ、信仰上のキリスト教は、個人主義を否定するところに真髄があると森は考える。

感覚をはなれて霊につくという時、それはこの感覚の自己克服よりもっと強いものを教えようとしたのだ。これを忘れるとキリスト教はほんとにふわふわのものになってしまう。あるいはモラルになってしまう。(「日記」、1957年5月8日、二宮正之編『森有正エッセー集成1』

「感覚の自己克服」とは、森がしばしば展開する感覚、ないし体験を経験に高めて普遍的な思想へ昇華させるという理解を踏まえれば、個人主義の言いかえと理解して差し支えないだろう。


個人主義よりもっと強いものと言われる信仰とは、一体どんなものか。信仰を持てないでいる者にはもちろん知る由もない。それは知識の問題でも、洞察力の問題でもないから。それでも、少なくとも信仰を持つ者からは、世俗的な知識や洞察で割り切れる体系はむしろ怪しむべきものであるとみなされていることは、つねに留意しておかなければならない。

鼎談の最後で森は世俗的な個人主義に対して、「おのれの生命を求めるものはおのれの生命を失う」として戒めている。この「宗教的表現のもっとも深い意味」が理解されなければ、真の個人主義、真の近代精神を知ることはできない。ましてそれを克服したり、乗り越えたりすることはできないという。

こうなると信仰のない者は沈黙して立ち尽くすほかない気がしてくる。にもかかわらず、信仰を持たない者が陥る極度に合理的な理解を、森は非難しない。それどころか謙虚で、そこから学ぼうとする態度すら感じられる。非常に畏怖すべき態度。


鼎談は森の発言で終わっている。世俗化された世界を前提としながら、そこから個人主義と民主主義を再生しようとした丸山眞男は、どのように応答したのだろう。あるいは、森が絶望的に受け止め、苦行のように進めていった西欧体験を、すんなりと楽観的に受けとめ、幸福感溢れる文体で表現していった辻邦生ならば、森の最後の言葉にどのように応答するのだろうか。今のところ私の関心は、森の言葉をそのまま受けとめるより、そちらの方へ向いていく。


さくいん:森有正


碧岡烏兎