土を掘る 烏兎の庭 第三部
表紙 > 目次 > 箱庭  > 前月  >  今月  >  翌月

2009年9月


9/26/2009/SAT

この夏、奇妙な光景を目にした。大勢で墓地へ出かけて、墓石のまわりの雑草を抜き、新しい花を生け、水をかけ、線香を焚き、手を合わせた。

奇妙だったというのは、墓の前にいるあいだ、誰ひとり、その墓が誰の墓なのか、口にしなかったから。そこに眠っているはずの人はどんな人だったのか、そんなことはもちろん、その人の名前さえ、誰も口にしなかった。

この8年の間、それまで送っていた生活よりもたくさん本を読み、音楽を聴き、何よりたくさん文章を書いてきたけど、結局のところ、そんなことは何ひとつ私の身には役に立っていないことに、私は気づかされた

いつになったら、その名前を、に出して、呼ぶことができるのだろう?

その異様な沈黙にかすかな憐憫を感じながらも、私はやはりその雰囲気を許すことができなかった。その沈黙に追従する人も許せなかった。そして、誰より、その沈黙を破ることができずに沈黙を通した自分が許せなかった。

自分を許すことのできない存在とみることは自分を誰よりも優れた存在とみなすことと同じくらいに、精神衛生上、いい兆候とは言えない。

この夏は、ずっとこのことを考えていて、ひどく疲れてしまった


平日の体調はよくなってきた。週末は、まだ寝坊をしたうえに昼寝をしている、つまり業務以外の時間はほとんど何もせずに寝てばかりいる。

S医院の先生にそのことを話すと、「鬱の症状が精神面から身体面に移っているからそうなるので、回復しているとは必ずしも言えない」と言われた。この言葉を聞いて、私はさらに疲れやすくなってしまったような気がする。

いろいろなことが少しずついい方向に動き出しているように感じていた。でも、よく観察してみれば、何も変わっていない。回復もしてないし、成長など、まったくしていない。むしろ、日々の雑事に流されることを「うまくやりすごしている」と勘違いしていたに過ぎない。

私は私が思っている以上に前の私とは変わってしまったのかもしれない、あるいは数年前からの病的な状態で変わらないでいるのかもしれない。前の私とは、『庭』を書きはじめる前の私のこと。病的な鬱状態や不安を感じるようになったのはいつからだろう。2年前の夏あたりだろうか。いや、呑む酒の多さや、家での口数の少なさで見れば、その前の数年間のほうがずっとひどかった。

思い返してみれば、「あの頃」はたくさん本を読み、文章を書いていた。つまり、"一人"でいる時間が長かった。

だから私は最近はよくなってきたと勝手に自己診断していた。でも、その診断は、間違っていた。前からそう思うことは少なくなかったけれど、今の私は、自分のことが前以上によくわからない

自分のしていることの意味も、自分が置かれている状況も、全くわかっていない。


要するに、『庭』をまたしばらく休もうと思う。実際のところ、ほとんど本も読んでないし、新しい音楽も聴いていない。

昔から聴いている音楽を落ち着いて聞きなおすこともしていないから何か書いてみようと思うこともない。

悔しいことにここしばらくは頭のなかも、気力も体力も、それから使える時間も、ほとんど業務に奪われている。

一番遠ざかっているのは美術。この夏は、ずっと前から行きたかったサンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)に行くことができた。特別展で “Georgia O'Keeffe and Ansel Adams”を観て、常設展でマーク・ロスコ作品も見ることができたのに、言葉にできるような感動はなにも感じられなかった。

そんな状態を「元気になってきた」「回復してきた」と思い込んでいたのだからどうかしている。客観的には私はどんどんおかしくなっているように見えているに違いない。そう見えていることにも、気づいていなかった。


生活と精神を根本的に建てなおさなければならない。

写真は、夕景、逆光の富士。今年の夏の終わりの思い出。


表紙 > 目次 > 箱庭  > 前月  >  先頭  >  翌月

uto_midoriXyahoo.co.jp